お金で買えるものにどれほどの価値があるのだろう。

お金で買うことが目的ではなく、お金で「満足」を買っているようなもの。

お金で手に入る「満足」は、自分をちゃんと充たしてくれていますか?


充たされていると思っている自分にも関わらず、
また、新たに「満足」を手に入れようと躍起になっていませんか?

その行動は、自分が「満足していない」ことを表していることを解っていますか?
そういう人の器は、どこかに"穴"が開いていると観じています。



昨日、また風呂入ってて出てきた答え。

お金の価値を思い込んでいるのは、自分。
ものの価値をお金で換算するのは、自分。

お金で手に入るものはすぐに放れていく。

では、「お金で買えないもの」は、どうやって手に入るんだ?と。
答えは極普通のことだった。

それは、時間だ。

ただひとつ、俺が今まで考えていたことと変わったことは、
時間は、"使えるものではない"ということ。
そして、"買えるものではない"ということ。

時間は、この世界で共通の概念・枠だと観じている。

んで、
時間は、結果のひとつの観方として、"使っている"とも言える。


"時間の使い方"ひとつで、「お金で買えないもの」が手に入るかどうかが決まる。

時間の使い方という言い方を変えると、時間の過ごし方。

時間は"過ごすもの"。

時は過ぎ行くもの。


っていうか、

時間より価値の有るものが在るんだろうか?と。


在る。

確かに、在る。


俺は、それこそ求めていて、それこそ最初から持っているもの。

最初から持っているのにも関わらず、俺はなにを求めているんだろう。

俺が求めているもの。

それは、「繋がり」と呼んでいるものだと観じている。

 

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