自分の言動について考えてみた。

日記を書き始めた去年の9月の頃と比べ
ずいぶんと変わってきた感のあるこの日記。

でも、変わってない部分もある。

というか、あの頃は「なんとなく」そう思っていたものが、

今では、「こうなのだ」と思える。

まぁ、考え方によっては決め付けはよくないってことになりますけど。

でも、違うんだ。

あの頃「なんとなく」だった自分の考え・気持ちが、

今は、わかるんだ。

あれはこういう意味だったのか と。


その「なんとなく」だけど、

なんで、あんなこと言ってたんだろう?とか思ったり。


そこで思う。

そう言いたかったんだろうな。

なにかわからないが、勘(直感)ってあるよね。

その勘と言っていたものが、

今ははっきりとしてきてる。


本来の自分の気持ちだろう。

あぁ、でも、人によっては勘っていうものの認識が違うかも。

んー。そこらへんは、個人差ありという認識でよろしくw

勘は勘じゃない。謎

勘とは、第六感と呼ばれるものだけど、
第六感っていうより第七識みたいな。


どっかの話によると、第七識は「末那識(まなしき)」だ。

つまり、(個人的)無意識。

無意識って感覚のひとつなんだ。


自分の無意識を感じてる。

これが俺の気付きわかった部分だろうか。



んー。やっぱ、ひとつのことに着目するとなんかバランスが崩れるね。

日記に書いてきたことがすべてじゃないけど。

すべてを表現することは難しい。

言葉で伝わる以外の感覚も使ってみてほしい。

たとえば、まず、俺の思いがあるよね。

文の雰囲気とか。

そういうものを使っていくともっと感じてもらえるかと。


でも、本当は、使うんじゃなく、感じるんだけどねw







この日記更新して、ソッコー読み直してみたけど、

自分を乗せることができて、

そのものを感じることができれば、

それはテレパシーってことでは?w


テレパシーはひとつひとつを感じるものではないらしい。

そのものを感じること。

即ち、そのものが一瞬にしてわかるということ。

理解というより、感じるに近いのかな。





/**
* 自分の言動に自分の答えがあった
*/
そのものを感じること。
そのものを感じるためには、自分そのもので感じれなければならない。


一番根本的なところから感じることができれば、
すべて感じることができるということ。

その根本に辿り着くには、
葉から枝を辿り、
枝から幹を辿り、
幹から根を辿らなければならない。


言いたいことは「木を見て森を見ず」なんだけど、
まずは、「葉を見て木を見ず」これを認識したい。


森に木はある。

木に葉はある。


森と木は繋がってる。

葉は木の一部。


木がたくさんあるから森。

木を知る中に葉はある。


葉とは現象
木とは人
森とは世界


これを自分で体感していけばいい。

体感できれば、それは自分の智慧となる。

 

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