2003年10月13日
人や物には名がある。

名とは存在を表すもの。
名が存在を表しているんじゃない。

物事は無から始まるものなんじゃないかな。
有から始まるものじゃない。

名もまた、名があるから名ということじゃない。
存在があるから、名なんだ。

名がなければ、
存在は感じれているが、呼べないというか、捉えれないというか。
そういうものをひとつずつ、捉えていく、呼んでいく、呼びかけていく。
これが言霊や呪文と呼ばれるものになっていくんじゃないかな。

名は体を表すという。
親が付けたものが、体を表していない名ならどうなるんだ。
それでも、名は体を表すというなら、試練か?w

親に付けられたものが名だとするなら、本当の名がある。本来の名が。
思い出せる人がいるかは別としてw

陰陽師では、名のことを「呪」と呼んでたかな。
名を名前として捉えると、ちょっと理解に困るかも。
俺が言う"名"とは、"型"のこと。


この世で付いた名は、この世のものだ。
この世で生を受けるのに、肉体が付くように。
この世で、我を受けるのに、名が付く。

名を超えること。

この世に存在するために、肉体というものが必要で
この世で他と言葉を交わすのに、名が必要で
肉体を失うとき、名が外れる

死んだ人に付ける戒名。
あの世のものと繋ぐために付ける名。



人はいろんなものに名を付ける。
今日からお前を「ポチ」と呼ぼうみたいな。
「蓮」と呼ぶことも。
出身大学等を「名誉」と呼ぶのと同じなんじゃないかな。

名はなくてもいい
肩書きなんてなくてもいい

名という型がなくなったら、すんげぃ世界が変わるねw


シンプル(自由)に向かえる人っていうのは、
なにかを知っているからだね。

でないと、シンプルに向かうことを恐いと思ったり、
つまらないと思ったりする。

芯がある。

名がない世界であっても、自分がいる。
自分がいなくなると思ったら、
名がない世界なんていられないと思うだろう。

自分は名があろうとなかろうと関係ないことを知っている。
自分を知っているから、シンプルになれるとも言えるのかな。
自分だけになれるというか。



記憶・覚えるっていう感覚。
俺が覚えるときって、自分の中に入ってきたとき。

だから、俺はけっこう忘れない。
思い出すときは、自分の中にあるから、自然とみつかる。
自分の身に刻んでおくっていうかね。
自分の身になっているものは忘れない。
身にならないものは忘れる。

じゃ、小学生の頃にやってたファミコンのパスワードを覚えてるってのは
身になっているからなのね_| ̄|○

なかなか忘れませんねぇw
普通に覚えてるしw
勉強をあまりしていない俺ですが
興味のあるものに対しては努力をしてきた模様w
努力と呼ぶのは端から見た話だけども。

覚えたかったんだって!
だから、覚えたんだって。
たぶん、そういうもんだろうねw
覚えたかったから覚えたんだ。


時が経てば忘れるものがある。
時が経っても忘れないものがある。
本当に必要なものって、それだけなんだろうね。
他は忘れてもいいもの。

真髄さえ覚えていれば、また、すぐ取り戻せる。

だから、始める場所は、外側からなんだ。
絶対に外側から。
内側から始まることはない・・・と、思うw

コップの水をかき回すとするじゃん?
外側からかき回さないとよく回らないよね。

じゃ、湯船だったらどうだろう?
外側から大きくかき回さないとよく回らないよね。

海だったらどうだろう?
そして、空の場合はどうだろう?

人には肉体がある。
肉体がある以上、この外を考える必要はない。

海の中で、渦を作るにはどうすればいいと思う?
空の中で、渦を作るにはどうすればいいと思う?

型のない中で回すから、難しい。
普通は回らない。

そこで「呪」だ。
捉えるんだ。
そしたら、回せる。
だから、回るんだ。

捉えればそれは形となる。

自分を捉えればいいんだ。
無念無想から、捉えるんだ。
無に辿り着くことが、回すことになっていく。
無=なにものにも囚われていない、または、なにも捉えていない状態。


幸せもまた無に帰さねばならない。
囚われてちゃいけない。
囚われのないところに本当の幸せがある。

幸も不幸もひとつの事の裏表。
そこから離れれることが幸せ と。



繋げるということは、
囚われのない状態になり、
そこから、捉えていくこと。

それは繋げているってこと。
繋がっているのではなく、繋げている。
というか、繋げていく。
端から観れば、繋がっていく。
そして、繋がっているということになる。


真理と呼ばれるものは、廻っている。


幸せというか辿り着くべきものが観える高さには何階層かあると感じる。
各階層には壁がある。

どれくらいの階層があるかは解らないけど、
俺が解るのは、

運勢とか、そういう外的要素のすべてが影響を及ぼさない層。
素直になって円滑に流れる層。
流れに逆らってでも辿り着く層。
流れに逆らい溺れながらなにかにしがみつく層。

目指すは、できるだけ上の層へ。
上の層を目指すのに、なにかが恐いと感じるなら、
なにかを知らないからなんだ。
下の層で、それでよしとするのは、知らないから。
いや、それはそれで、その層での幸せをつかめてるわけだけど。

一度観えてしまったら頑張るしかない。
観えるからこそ、頑なに張れるんだ。


外的要素のすべてが影響を及ぼさない層になにがあるのかって?
安心と呼ばれる穏やかさがある。



やる気が出ないとか関係なかった。
信念があるなら為すだけだ。
素直に為していけばいい。

気付くことだった。
本来の姿に。

それこそが"やる"理由なのだと。

 

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