頭や全身に纏う見えない光
2003年10月18日部屋にひとりで静かに座っていられること。
静かに座っていられないのは、なぜか。
静かにしていることの意味。
"自分が"なにもしないこと。
なにもしないと言いながら、息をしている。
心臓が動いている。
身体がなにもしていないことなどない。
身体は生きている。
いや、身体が生きているのか?
じゃ、自分は?
身体を纏うものかな。
ちょっと違うけど。
気は、身体で感じれるが、
気は、心でも感じれるものだ。
"自分"というものが、身体であったり、心であったりと感じる。
俺は心から観る身体と感じる。
ここ1週間の話なんだけど、
リアルな夢ってあるじゃん?
すぐ切り替わっちゃうような夢じゃなく。
なんか、はっきりとしてるやつ。
そのはっきりとした夢を見る状態が解った感じ。
それは心の囚われがなくなったとき。
夢のときと同じような視点になる。
そして、夢の中で自分を認識しようとすることは、
自分を捉えるということ。
んで、最近けっこう囚われが外れてきて、
自分が身体から出ていて、上の方から自分を観る感じ。
この状態じゃいけないように感じるんだよなぁ。
ムハンマドだったか誰だったかの絵には、
皆、頭に透明なヘルメットっていうか球体を纏っているのね。
その絵の主役は全身金色で頭に透明な球体を纏っている。
なぜ、金色かは置いといて。
頭の球体については、飽和っていうか、
天と地が釣り合ってる状態だと感じる。
身体で言えば、身体の中心はお腹。
心(というもの)の中心は、頭とお腹の間、つまり、胸。
天と自分の中心は、頭(頭頂)。
地と自分の中心は、足(足の裏)。
天と地の中心は、自分。つまり、人。
天
人
地
地に足を着けること。落ち着き。
天に広がること。解放。
自分を落ち着け、心を解放する。
あの球体を纏う姿を観て、
そのバランスがとれている状態だと感じた。
天と釣り合い、地と釣り合っていなければ、
身体に光を纏うことはないのだろう。
両極あってこその太極ってことかな。
気で言えば、
気持ちを落ち着けていけば、縦横に広がる勢いが出てくる。
自然と頭に昇ってくるもの。
昇ってくるっていうか、広がってくるもの。
もちろん、落ち着かず、自分で上げようなんてすれば身を滅ぼす。
それが、俺にとっての気功の意味。
そこから、法を知り、智慧をつけ、物事が観えるようになり、
物事という型・囚われから解放されると、
身体を超えて外から観える。
確かに前よりバランスがよくなってる。
でも、自分が身体を感じるとバランスが崩れる。
そこで。
外から自分を捉える。
落ち着き、囚われのない状態で、心と身体を繋ぐ。
その繋ぐ点が、頭と足の中心、つまり、お腹だということ。
口ではすんなり言えるようになってきたけど、
これができるようになるのはまだかかりそう。
最近忘れていた感覚を思い出す。
昨日は恋というものを。
今日は温かい気持ちというものを。
でも、忘れていたんじゃないのかも。
ひとつ廻って辿り着いた気がする。
ひとつの砂時計のように。
砂が流れている間は感じれてる。
でも、砂がなくなると忘れる。
そして、逆さまになった時、
改めて、砂が流れているのを感じる。
これを思い出すという。
ずっと回しつづけるにはどうしたらいいんだ?
それはその砂時計が観えるようになることだ。
自分が観ていないから、他の人が教えてくれるんだ。
そして、行き着くところは
観ることなく、観ずること。
静かに座っていられないのは、なぜか。
静かにしていることの意味。
"自分が"なにもしないこと。
なにもしないと言いながら、息をしている。
心臓が動いている。
身体がなにもしていないことなどない。
身体は生きている。
いや、身体が生きているのか?
じゃ、自分は?
身体を纏うものかな。
ちょっと違うけど。
気は、身体で感じれるが、
気は、心でも感じれるものだ。
"自分"というものが、身体であったり、心であったりと感じる。
俺は心から観る身体と感じる。
ここ1週間の話なんだけど、
リアルな夢ってあるじゃん?
すぐ切り替わっちゃうような夢じゃなく。
なんか、はっきりとしてるやつ。
そのはっきりとした夢を見る状態が解った感じ。
それは心の囚われがなくなったとき。
夢のときと同じような視点になる。
そして、夢の中で自分を認識しようとすることは、
自分を捉えるということ。
んで、最近けっこう囚われが外れてきて、
自分が身体から出ていて、上の方から自分を観る感じ。
この状態じゃいけないように感じるんだよなぁ。
ムハンマドだったか誰だったかの絵には、
皆、頭に透明なヘルメットっていうか球体を纏っているのね。
その絵の主役は全身金色で頭に透明な球体を纏っている。
なぜ、金色かは置いといて。
頭の球体については、飽和っていうか、
天と地が釣り合ってる状態だと感じる。
身体で言えば、身体の中心はお腹。
心(というもの)の中心は、頭とお腹の間、つまり、胸。
天と自分の中心は、頭(頭頂)。
地と自分の中心は、足(足の裏)。
天と地の中心は、自分。つまり、人。
天
人
地
地に足を着けること。落ち着き。
天に広がること。解放。
自分を落ち着け、心を解放する。
あの球体を纏う姿を観て、
そのバランスがとれている状態だと感じた。
天と釣り合い、地と釣り合っていなければ、
身体に光を纏うことはないのだろう。
両極あってこその太極ってことかな。
気で言えば、
気持ちを落ち着けていけば、縦横に広がる勢いが出てくる。
自然と頭に昇ってくるもの。
昇ってくるっていうか、広がってくるもの。
もちろん、落ち着かず、自分で上げようなんてすれば身を滅ぼす。
それが、俺にとっての気功の意味。
そこから、法を知り、智慧をつけ、物事が観えるようになり、
物事という型・囚われから解放されると、
身体を超えて外から観える。
確かに前よりバランスがよくなってる。
でも、自分が身体を感じるとバランスが崩れる。
そこで。
外から自分を捉える。
落ち着き、囚われのない状態で、心と身体を繋ぐ。
その繋ぐ点が、頭と足の中心、つまり、お腹だということ。
口ではすんなり言えるようになってきたけど、
これができるようになるのはまだかかりそう。
最近忘れていた感覚を思い出す。
昨日は恋というものを。
今日は温かい気持ちというものを。
でも、忘れていたんじゃないのかも。
ひとつ廻って辿り着いた気がする。
ひとつの砂時計のように。
砂が流れている間は感じれてる。
でも、砂がなくなると忘れる。
そして、逆さまになった時、
改めて、砂が流れているのを感じる。
これを思い出すという。
ずっと回しつづけるにはどうしたらいいんだ?
それはその砂時計が観えるようになることだ。
自分が観ていないから、他の人が教えてくれるんだ。
そして、行き着くところは
観ることなく、観ずること。
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