部屋にひとりで静かに座っていられること。
静かに座っていられないのは、なぜか。

静かにしていることの意味。


"自分が"なにもしないこと。

なにもしないと言いながら、息をしている。
心臓が動いている。

身体がなにもしていないことなどない。

身体は生きている。
いや、身体が生きているのか?

じゃ、自分は?
身体を纏うものかな。
ちょっと違うけど。



気は、身体で感じれるが、
気は、心でも感じれるものだ。


"自分"というものが、身体であったり、心であったりと感じる。


俺は心から観る身体と感じる。


ここ1週間の話なんだけど、
リアルな夢ってあるじゃん?
すぐ切り替わっちゃうような夢じゃなく。
なんか、はっきりとしてるやつ。

そのはっきりとした夢を見る状態が解った感じ。

それは心の囚われがなくなったとき。
夢のときと同じような視点になる。

そして、夢の中で自分を認識しようとすることは、
自分を捉えるということ。


んで、最近けっこう囚われが外れてきて、
自分が身体から出ていて、上の方から自分を観る感じ。

この状態じゃいけないように感じるんだよなぁ。
ムハンマドだったか誰だったかの絵には、
皆、頭に透明なヘルメットっていうか球体を纏っているのね。
その絵の主役は全身金色で頭に透明な球体を纏っている。

なぜ、金色かは置いといて。
頭の球体については、飽和っていうか、
天と地が釣り合ってる状態だと感じる。

身体で言えば、身体の中心はお腹。
心(というもの)の中心は、頭とお腹の間、つまり、胸。
天と自分の中心は、頭(頭頂)。
地と自分の中心は、足(足の裏)。
天と地の中心は、自分。つまり、人。





地に足を着けること。落ち着き。
天に広がること。解放。

自分を落ち着け、心を解放する。

あの球体を纏う姿を観て、
そのバランスがとれている状態だと感じた。

天と釣り合い、地と釣り合っていなければ、
身体に光を纏うことはないのだろう。
両極あってこその太極ってことかな。


気で言えば、
気持ちを落ち着けていけば、縦横に広がる勢いが出てくる。
自然と頭に昇ってくるもの。
昇ってくるっていうか、広がってくるもの。

もちろん、落ち着かず、自分で上げようなんてすれば身を滅ぼす。

それが、俺にとっての気功の意味。


そこから、法を知り、智慧をつけ、物事が観えるようになり、
物事という型・囚われから解放されると、
身体を超えて外から観える。

確かに前よりバランスがよくなってる。
でも、自分が身体を感じるとバランスが崩れる。

そこで。
外から自分を捉える。

落ち着き、囚われのない状態で、心と身体を繋ぐ。
その繋ぐ点が、頭と足の中心、つまり、お腹だということ。


口ではすんなり言えるようになってきたけど、
これができるようになるのはまだかかりそう。





最近忘れていた感覚を思い出す。
昨日は恋というものを。
今日は温かい気持ちというものを。

でも、忘れていたんじゃないのかも。
ひとつ廻って辿り着いた気がする。

ひとつの砂時計のように。
砂が流れている間は感じれてる。
でも、砂がなくなると忘れる。
そして、逆さまになった時、
改めて、砂が流れているのを感じる。
これを思い出すという。

ずっと回しつづけるにはどうしたらいいんだ?
それはその砂時計が観えるようになることだ。
自分が観ていないから、他の人が教えてくれるんだ。


そして、行き着くところは
観ることなく、観ずること。

 

コメント

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索