言葉の裏側

2003年11月4日
文字には、象形文字、表音文字、表意文字、表語文字などがある。

象形、文字、言葉、言語と呼ばれるそれらは、それ自体に意味を有する。


俺が気持ちを言葉で表現するときに
意識を向けていることは、言葉の補完だ。
ただ言葉を連ねているだけでは足りない。
そういう足りないものをできるだけ言葉にしていく。

気持ちを表現することに始まり、
言葉を補完し、
言葉を気持ちある分だけ連ね、
言葉を集約するに到り、
言葉はひとつとなる。

言葉を集約しなくとも、
言葉を気持ちある分だけ連ねることでも意味は通じる。

ある時を境に、
自分の外へ表現していくことから、自分の内へ集めていくことに変わる。


表現していることが、自分の中にあるもので、
相手が分かるのは、
自分の中にあるものだと気付いた時から流れが変わり始めるんだ。


表現は必要ないんだ。
自分と同じものが相手の中にもあれば。

相手に気持ちを解ってもらう為に、表に現して形にする必要はないんだ。


本当に必要なのは、
表に現して形にしたい"自分の気持ち"を知っていることなんだ。

そして、相手と分かち合うこと。

分かち合うために、言葉を集約していかなければならないんだ。
意味が通じることと、分かち合うことはちょっと違うんだ。
表に現すのは自分の気持ちを分かってもらう為にする。

でも、自分の気持ちを分かってもらうのに、
自分が形として気持ちを表すことは、
相手もその形を理解しなければならず、
自分と相手が形を通して疎通をするということになる。


一番分かち合うのに遠い状態は、お互いが表現する手段を持たない状態。



古代人になったつもりで、思い浮かべてもらいたいんですが、
表現手段を持っていない状態で、表現しようとするならどうやってする?


言葉は分かち合うためではなく、形として残す方法だったんじゃないかな。
表現すること、それはなにかを創り残すことになるんじゃないかな。


時代の流れみたいなものがあったんじゃないかなと思ったりする。
手紙がEメールに向かいつつあるように。

自転車ができ、自動車ができ、人は出来るだけ歩くことを避ける。
理由は歩くと時間がかかるからかも知れないし、疲れるからかも知れない。

人が歩く意味、人が立つ意味みたいなものから遠ざかってるように感じる。



そして、一番分かち合える状態は、
お互いが表現しなくてもよいという状態なんじゃないかな。


じゃ、どうすれば分かち合えるのかって?
分かち合うのに、解ってもらおうとする必要はなく、
一緒にいるだけで分かち合えているものなんだ。
つまり、繋がっているんだ。


自分 ⇔ もの・こと ⇔ 相手
自分ともの・ことが繋がっていて、もの・ことと相手が繋がっている。

自分 ⇔ 相手
自分と相手が繋がっている。 



相手と繋がっているという感覚を感じたことはあるだろうか。
肉体の意味ではなくね。

気持ちが繋がっているという感覚。



俺は"空気のような存在の人"を求めていた。
空気だと気付かないじゃん!と言われることもあったw

あの頃、自分で思うように言えなかったけど、今なら言えるかな。

空気のようなとは、正に繋がっている状態に他ならない。
繋がっていて自然。
気付いていなければ、解りもしない存在。
そう、気付いていれば解る存在。
自分の内面とハッキリと繋がっている存在。

そんな人を求めていた。

お互いの気持ちが
繋がっているってことに気付いても、気付いていなくても、
空気のような存在に変わりはない。


目に見えないもの。そして、目に見えなくてもなくてはならないもの。
空気とはこれほど身近なものなんだ。

それくらい繋がりを感じれる人を求めていた。


でも、求めるだけじゃ得られないんだ。
自分が求めずとも得られるようにならなければ。

求めるなら、得られている自分になればいい。
それになりたいなら、なっている自分になればいい。


幸せになりたいのなら、幸せな自分になればいい。

空気の存在になりたいのなら、
空気の存在になっている自分になればいい。

俺の場合、相手がいるかいないかが問題じゃないんだ。
自分がそうなれていなければ、たとえ相手が現れてもなれはしない。


すべてに言えることだけど、『初心忘るべからず』だね。

 

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