出逢いで人は変わる
2003年11月18日『水に手当て』
コップに水をいれ、机の上に置く。
それをぼけーっとTV見るとかしながら、コップに手を近づけておく。
だいたい、1,2cmくらいのところで手を当てる。
あとは、姿勢を正す。
姿勢がよくなればなるほど、流れがよくなり、
落ち着ければ落ち着けるほど、それがよく感じれるようになる。
身体の弛みと張り、心の落ち着きと囚われの解放を忘れずに。
もちろん、コップの水は意識しない。
意識は自分に向ける。
強いて言うなら、手が受け取っているものを感じること。
そこに「もの」があるのではなく、
そこに"ある"か"ない"かじゃなくて、
そこにあってもなくてもいい。
なければ"ない"という感覚がある。
最初から"ある"と思っていると感じれるものも感じれないよ。
人は、自分に必要なものだけ気付くことができる。
気付くことができるということは、
それを受け入れる準備が調っているということなんだ。
学ぶ姿勢ができていることが大前提。
学ぶ姿勢がいつできあがるのか。
自己を昇華させようとするものにとって、
いつがその時かは、それに気付いた時が学び始める時なのだろう。
人生、気付いたときが始まりってことみたいだね。
疑問を感じたり、認識した時点で、すでに始まってるのかも知れないね。
踵の大事さ
踵をちゃんと地に着けよう。
今までちゃんと踵が地に着いていなかったことを知る。
踵に重心を置き、そこから、安定できる足の裏の中心へ近付けていく。
基本は、後ろから前へ。
張りから弛みへではなく、弛みから張りへ。
あ、そういえば、
心の落ち着きと、囚われの解放は別のもの。
心の落ち着きと、意識の強さというか、意念というか、気持ちというか。
心の落ち着きと気持ちの強さ。
気持ちが強すぎると落ち着きがなくなる。
落ち着きと気持ちの強さのバランスは、言うなれば、独楽みたいなもの。
独楽を回して、独楽が倒れたり、軸が揺れてたら勢いが弱い。
反対に、
独楽に勢いがありすぎて、接地点が一点に留まっていられなければ強い。
独楽が安定していて、軸が揺れず、接地点がぶれない状態。
そんな状態が、綺麗に安定した力の出せる状態。
まずは、弛み。
顔は前をまっすぐに向く。
首を弛める。
肩を弛める。
腕を弛める。
みぞおちを弛める。
腰とお腹全体を弛める。
お尻と股関節あたりの内側を弛める。
足は平行で、踵へ重心を。
弛めれば弛めた分、骨に負担が掛かる。
だから、
負担が掛からないように弛ませすぎず、弛みを感じれる程度に張る。
そうすることで、弛みと張りのバランスがとれてくる。
踵から全身の重心として、両足の中心へ。
しっかりと地に足が着く。
姿勢が正しければ正しいほど、地に足が着く。
そして、
真っ直ぐ下に重心を感じれれば、真っ直ぐ上へ伸びる勢いができる。
これさえできれば、まずは、いいような気がしないでもない。
これができるようになるまでに、
落ち着きや、気持ちの集中力が付いてくる。
弛みと張りに囚われないこと。
本来、自然なことなんだ。
新鮮味ってさ、どういうもんだろうね?
あたりまえなことが新鮮に感じる。
新鮮味がないっていうのは、
自分の気持ちが薄れているってことなんじゃないかな。
自分との関係が、薄れさせているというより、
自分の心が新鮮味を失っているだけなんだ と。
気持ちを新鮮に保とう。
それは誰かが必要なことなんじゃないんだ。
出逢いで人は変われる。
出逢わなければ人は変われないっていうわけじゃないと感じるんだ。
変わりたいと思うなら、変わろうよ?
変わりたいと感じるなら、変わろうよ?
心の中で、変われない力なんてないと感じてるよ。
すべては、自分を動かす力なんだ。
心の関すること。
それは、
すべて自分の力になるものなんだと感じてる。
だから、
変わりたいなら、変わろうよ♪
ね?
コップに水をいれ、机の上に置く。
それをぼけーっとTV見るとかしながら、コップに手を近づけておく。
だいたい、1,2cmくらいのところで手を当てる。
あとは、姿勢を正す。
姿勢がよくなればなるほど、流れがよくなり、
落ち着ければ落ち着けるほど、それがよく感じれるようになる。
身体の弛みと張り、心の落ち着きと囚われの解放を忘れずに。
もちろん、コップの水は意識しない。
意識は自分に向ける。
強いて言うなら、手が受け取っているものを感じること。
そこに「もの」があるのではなく、
そこに"ある"か"ない"かじゃなくて、
そこにあってもなくてもいい。
なければ"ない"という感覚がある。
最初から"ある"と思っていると感じれるものも感じれないよ。
人は、自分に必要なものだけ気付くことができる。
気付くことができるということは、
それを受け入れる準備が調っているということなんだ。
学ぶ姿勢ができていることが大前提。
学ぶ姿勢がいつできあがるのか。
自己を昇華させようとするものにとって、
いつがその時かは、それに気付いた時が学び始める時なのだろう。
人生、気付いたときが始まりってことみたいだね。
疑問を感じたり、認識した時点で、すでに始まってるのかも知れないね。
踵の大事さ
踵をちゃんと地に着けよう。
今までちゃんと踵が地に着いていなかったことを知る。
踵に重心を置き、そこから、安定できる足の裏の中心へ近付けていく。
基本は、後ろから前へ。
張りから弛みへではなく、弛みから張りへ。
あ、そういえば、
心の落ち着きと、囚われの解放は別のもの。
心の落ち着きと、意識の強さというか、意念というか、気持ちというか。
心の落ち着きと気持ちの強さ。
気持ちが強すぎると落ち着きがなくなる。
落ち着きと気持ちの強さのバランスは、言うなれば、独楽みたいなもの。
独楽を回して、独楽が倒れたり、軸が揺れてたら勢いが弱い。
反対に、
独楽に勢いがありすぎて、接地点が一点に留まっていられなければ強い。
独楽が安定していて、軸が揺れず、接地点がぶれない状態。
そんな状態が、綺麗に安定した力の出せる状態。
まずは、弛み。
顔は前をまっすぐに向く。
首を弛める。
肩を弛める。
腕を弛める。
みぞおちを弛める。
腰とお腹全体を弛める。
お尻と股関節あたりの内側を弛める。
足は平行で、踵へ重心を。
弛めれば弛めた分、骨に負担が掛かる。
だから、
負担が掛からないように弛ませすぎず、弛みを感じれる程度に張る。
そうすることで、弛みと張りのバランスがとれてくる。
踵から全身の重心として、両足の中心へ。
しっかりと地に足が着く。
姿勢が正しければ正しいほど、地に足が着く。
そして、
真っ直ぐ下に重心を感じれれば、真っ直ぐ上へ伸びる勢いができる。
これさえできれば、まずは、いいような気がしないでもない。
これができるようになるまでに、
落ち着きや、気持ちの集中力が付いてくる。
弛みと張りに囚われないこと。
本来、自然なことなんだ。
新鮮味ってさ、どういうもんだろうね?
あたりまえなことが新鮮に感じる。
新鮮味がないっていうのは、
自分の気持ちが薄れているってことなんじゃないかな。
自分との関係が、薄れさせているというより、
自分の心が新鮮味を失っているだけなんだ と。
気持ちを新鮮に保とう。
それは誰かが必要なことなんじゃないんだ。
出逢いで人は変われる。
出逢わなければ人は変われないっていうわけじゃないと感じるんだ。
変わりたいと思うなら、変わろうよ?
変わりたいと感じるなら、変わろうよ?
心の中で、変われない力なんてないと感じてるよ。
すべては、自分を動かす力なんだ。
心の関すること。
それは、
すべて自分の力になるものなんだと感じてる。
だから、
変わりたいなら、変わろうよ♪
ね?
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