心と身体の健康

2004年1月12日
『健康』


心と身体。

両方が健康だとどうなるんだろうね。


愛に満たされた心と、生命という活力に満たされた身体


皆、病んでるんだな と。

皆、足りないんだな と。

なんていうか

老いているから活力に満たされていないんじゃなくて、

感じていないからなんだろうな。


気付いたんだけど、

心や身体が健康だからって、満たされているわけじゃない。


身体が健康で、心も健康だったとしても、

それに気付いていなければ、満たされない。


満たされる基準が人それぞれ違うんじゃないかって?

なんだろ

基準は人それぞれかも知れないんだけど、

基準はない。


健康の基準は、心と身体の関係から解るもので

基準と"思っている"ものはない

と、今はそう感じていたりする。


満たされていると思い込むことなく

満たされていると解ることが、本当に満たされているってことなのだと。



んで、健康ってなにかっていうことも考えちゃうねw

性欲があること

これは健康なこと

でも、だいたい性欲の扱いがなってないんじゃないかと感じるわけで。

これはいずれw





『心の門』


やる気を出そうとするときってさ、疲れる?

俺のやり方でいうと、

姿勢を正して

首・肩弛めて

みぞおち弛めて

この状態で、やる気を出そうと試みる。


試してみて、気付いたことがある。

やる気っていうか、そういうものが湧いてくる門がある。

でも、そこは少し空虚な感じだったりもする。

空虚だと感じたのは、俺の心が空虚感を伴っているからだろう。

その門のあたりを温かくしていくことが、

門を開いていくことになるんじゃないかな と。


そこはどこにあるのか。

外に目的を定めることなく

外になにかを思うことなく

自分に生きる意味を問うところ。


自分で、自分のやる気を出そうとするところ。



充実しているときは、門が開いている。

充実していないときは、門が開いていない。

どうやったら開くことができるのか。


それは幸せになろうとすることに似ている。

幸せに成ることは、なにかを為すことではない。

為さなければ成らないけど。

身口意を為していくことが、直接幸せに直結していることではなくて。

行動と呼ばれる身口意は、門を開くきっかけなのかも。


あぁ、そうかw

身口意で門を開くことができるんだ。


どちらからでも辿り着けるw

身口意で門を開くことと、意識で門を開くこと。

今の俺には、そのふたつがずいぶんと違うように観えている。

片方だけを観れば ね。


門が開くことで、充実していると感じる。

門が開いていれば、充実しているということ。


どちらから開こうとしても開けるもののようだ。

ただ、開いたからって、

心底やる気が沸いてきているわけじゃないんじゃないかな。

だから、疲れるのだろう。


疲れることなく、湧いてくるやる気。

それは、心の底に辿り着かなきゃ無理なんじゃないかな。


というより、

身口意や意識で開こうとすること

これらの行為自体、上辺だけってことなんだ と。


辿り着くことができれば、門は開かれる。

身口意をすることで、自然に開かれていくように。

自分に智慧を持って向き合うことで、自然に開かれていくように。


解らなければならないのは、この"理"なんじゃないかな。

これが、「人の門」を開いていくことなのだと観じている。

 

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