己の我欲に克つ者。それは、己の運命に勝つ者。
2004年1月17日『歳の差』
俺は、歳の離れた人とよく話が合う。
たとえば、
40代だったり50代だったり。その上でも。反対に子供でもそうだ。
翌々考えたら、誰とでも話し合える。
そして、話し合えないこと自体、自分が聞けていないからなのだろうと。
年齢の差ってなんだろうね。
時は、刻々と過ぎている。
その過ぎた時の多さ少なさ。
その差になにを思う?
その差になにを感じる?
歳の差は、経験の差かな。
でも、
大切なのは"質"であって、"数"ではないと観じている。
"質"とは、学べる"質"かな。ひとつのことで学べる"質"。
"数"の差があるとしても、学んだ"質"の差が歳の差を作るのだろうか。
一事を大事に高め、一事を大切に修める
結局、過ぎた時の多さ少なさは、過ぎた時の多さ少なさだね。
『飾らない笑顔』
飾った笑顔をいつもしていると、
飾らない笑顔をすることをつまらないと思ったりしていませんか。
味気ある食べ物をいつも食べていると、
味気ない食べ物をまずいと思ったりしていませんか。
食べ物の味が解りますか?
笑顔がこぼれ出てくる温かさが解りますか?
飾ること。
それは、自分をよく見せたいと思っていませんか?
飾りをとれば"ただの人"ということになっていませんか?
最初から、"ただの人"ですよ。
飾っても、飾らなくても、"ただの人"に変わりありません。
ただし、飾ろうとすること、それ自体、
"ただの人"という真実から目を背けていませんか?
自分が目を背けていなければ
相手が飾っていようと、飾っていなかろうと、
その相手を"ただの人"と観ることができます。
"ただの人"は、"直の人"であり、"唯の人"です。
自分が"ただの人"に成れれば、観える人すべて"ただの人"です。
自分が"ただの人"に成れなければ、観える人に差が生まれるでしょう。
飾っていても、飾っていなくても、
飾らない笑顔は解るものだということ。
飾らない自分に、味気ないと思うことなく、
飾らない自分の"味"が解ること。
自分の"味"が解るように成ること。
それは、自分を好きに成っていくこと。
俺は、歳の離れた人とよく話が合う。
たとえば、
40代だったり50代だったり。その上でも。反対に子供でもそうだ。
翌々考えたら、誰とでも話し合える。
そして、話し合えないこと自体、自分が聞けていないからなのだろうと。
年齢の差ってなんだろうね。
時は、刻々と過ぎている。
その過ぎた時の多さ少なさ。
その差になにを思う?
その差になにを感じる?
歳の差は、経験の差かな。
でも、
大切なのは"質"であって、"数"ではないと観じている。
"質"とは、学べる"質"かな。ひとつのことで学べる"質"。
"数"の差があるとしても、学んだ"質"の差が歳の差を作るのだろうか。
一事を大事に高め、一事を大切に修める
結局、過ぎた時の多さ少なさは、過ぎた時の多さ少なさだね。
『飾らない笑顔』
飾った笑顔をいつもしていると、
飾らない笑顔をすることをつまらないと思ったりしていませんか。
味気ある食べ物をいつも食べていると、
味気ない食べ物をまずいと思ったりしていませんか。
食べ物の味が解りますか?
笑顔がこぼれ出てくる温かさが解りますか?
飾ること。
それは、自分をよく見せたいと思っていませんか?
飾りをとれば"ただの人"ということになっていませんか?
最初から、"ただの人"ですよ。
飾っても、飾らなくても、"ただの人"に変わりありません。
ただし、飾ろうとすること、それ自体、
"ただの人"という真実から目を背けていませんか?
自分が目を背けていなければ
相手が飾っていようと、飾っていなかろうと、
その相手を"ただの人"と観ることができます。
"ただの人"は、"直の人"であり、"唯の人"です。
自分が"ただの人"に成れれば、観える人すべて"ただの人"です。
自分が"ただの人"に成れなければ、観える人に差が生まれるでしょう。
飾っていても、飾っていなくても、
飾らない笑顔は解るものだということ。
飾らない自分に、味気ないと思うことなく、
飾らない自分の"味"が解ること。
自分の"味"が解るように成ること。
それは、自分を好きに成っていくこと。
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