alway original
2004年3月3日身体を弛め
意識で思うことなく
今より遠ざかることなく
聞く
朝ちょっといつもの如く精神統一してた。
自分がなにもしていないと「思っていても」、
どんどん思う流れに「乗ってしまう」。
流されていることを自覚し、
「今」に戻る。
つまり、聞く姿勢に戻る。
本当に聞けている時っていうのは、なにも「思っていない」。
もちろん、意識はあるし、浮かぶものはある。
この浮かんで流れてくるものに乗ったらまた遠ざかる。
これを自覚し、止まる術を探す。
そして、行き着いたのは結局、「今」に戻る。
聞くことは、感じることでもある。
というより、聞くという動作は感じようとすることからくる。
だから、一心に聞けるということは、一心に感じられるということ。
「今」を感じること。
今の俺は、その筆頭に、聞くことを推奨する。
聞くことが、感じることに高まった時、
まわりの気を引き寄せ始める。
俺の場合は、まず、額の奥からだった。
んで、頭全体に引き寄せ始め、次第に全身で引き寄せ始めた。
それは、「今」を身体で感じているということ。
意識、身体の弛み、姿勢。
この3つが主な注意点。
俺が今日精神統一をした中で、目の裏が普段より数段明るくなった。
んで、胸の中心、前と後ろともに霊感に似た感覚が広がり始めた。
っていうか、ちょっとこの目の裏のが気になって調べて観てたんだけど、
俺のやってることって、なにに当てはまるのか判らないw
禅?瞑想?気功?仙道?
んで、考えてみた。
禅や瞑想、気功や仙道というのは手段・手法なんだ と。
俺が今までに培ってきたものは、精神的なものがほとんど。
それも自分のねw
自分の精神の不安を、自分で取り除くために。
自然とやってた。
俺のやってきていることがなにに当てはまるかなんて、当てはめる必要もない。
だって、俺は、俺。
たとえ、なにかに当てはまっていたとしても、俺のオリジナルなんだからw
俺の言う「思う」ことは、「思考」のこと。
思考をしていると、まわりが解らない。
考察はしていても、まわりが解る。
まわりが解るということは、観じられているということ。
自分の「考え方」次第で、まわりが解ったり解らなかったりする。
「思考」することが、まわりを遮断させていく。閉塞的な集中。
「考察」することが、まわりと同調させていく。開放的な集中。
昔は、「思考」することが集中だと思ってた。
でも今は、「考察」して集中する方がよっぽど好いものだと観じている。
まわりを遮断することで、それを得られる。
まわりと同調することで、それやそれの繋がりも得られる。
どちらも、「得られる」。
ただ、得られるものの差は、雲泥の差なんだ。
だからどうということでもないんだけどね。
1+1が2なのか、それ以上なのかの差だから。
でも、この差は、幸せをどれだけ感じているかの差でもあるんだよ。
意識で思うことなく
今より遠ざかることなく
聞く
朝ちょっといつもの如く精神統一してた。
自分がなにもしていないと「思っていても」、
どんどん思う流れに「乗ってしまう」。
流されていることを自覚し、
「今」に戻る。
つまり、聞く姿勢に戻る。
本当に聞けている時っていうのは、なにも「思っていない」。
もちろん、意識はあるし、浮かぶものはある。
この浮かんで流れてくるものに乗ったらまた遠ざかる。
これを自覚し、止まる術を探す。
そして、行き着いたのは結局、「今」に戻る。
聞くことは、感じることでもある。
というより、聞くという動作は感じようとすることからくる。
だから、一心に聞けるということは、一心に感じられるということ。
「今」を感じること。
今の俺は、その筆頭に、聞くことを推奨する。
聞くことが、感じることに高まった時、
まわりの気を引き寄せ始める。
俺の場合は、まず、額の奥からだった。
んで、頭全体に引き寄せ始め、次第に全身で引き寄せ始めた。
それは、「今」を身体で感じているということ。
意識、身体の弛み、姿勢。
この3つが主な注意点。
俺が今日精神統一をした中で、目の裏が普段より数段明るくなった。
んで、胸の中心、前と後ろともに霊感に似た感覚が広がり始めた。
っていうか、ちょっとこの目の裏のが気になって調べて観てたんだけど、
俺のやってることって、なにに当てはまるのか判らないw
禅?瞑想?気功?仙道?
んで、考えてみた。
禅や瞑想、気功や仙道というのは手段・手法なんだ と。
俺が今までに培ってきたものは、精神的なものがほとんど。
それも自分のねw
自分の精神の不安を、自分で取り除くために。
自然とやってた。
俺のやってきていることがなにに当てはまるかなんて、当てはめる必要もない。
だって、俺は、俺。
たとえ、なにかに当てはまっていたとしても、俺のオリジナルなんだからw
俺の言う「思う」ことは、「思考」のこと。
思考をしていると、まわりが解らない。
考察はしていても、まわりが解る。
まわりが解るということは、観じられているということ。
自分の「考え方」次第で、まわりが解ったり解らなかったりする。
「思考」することが、まわりを遮断させていく。閉塞的な集中。
「考察」することが、まわりと同調させていく。開放的な集中。
昔は、「思考」することが集中だと思ってた。
でも今は、「考察」して集中する方がよっぽど好いものだと観じている。
まわりを遮断することで、それを得られる。
まわりと同調することで、それやそれの繋がりも得られる。
どちらも、「得られる」。
ただ、得られるものの差は、雲泥の差なんだ。
だからどうということでもないんだけどね。
1+1が2なのか、それ以上なのかの差だから。
でも、この差は、幸せをどれだけ感じているかの差でもあるんだよ。
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