囚われとは

2004年3月6日
動物を虐待することで捕まる人がいる。
どっからが虐待なんですかって?

どっからなんだろうね。
親のしつけと過剰な暴力の差だよね。

カマキリやゴキブリ、ねずみ等を殺しても捕まらないのはなぜかって?
というより、同じ「命」だと思っているけど。

んで、捕まるのはなぜかっていうことだね。
裁判にかけられる人もいるという。

なぜ、裁判にかけられるのかって?
裁判にかけたいと思う人がいるからでしょうw

それは見せしめってことかって?
いや、見せしめとかクソもなく、
その裁判にかけたいと思っている人が、殺しちゃいけないと思っているから、
それが正しいために、裁判で解ってもらおうとしているということ。

この「殺しちゃいけない」理由は他にあるじゃん?
例えば、自分が殺されるならどうする?っていう話だね。

結論から言うと、如何なるものであっても殺して生きているということ。
誰かを殺したら裁き処罰するというのはおかしいと観じている。

生かす道の中に、殺す道があるとも観じている。
生かす道から外れている非道なら、更生する必要があるとも観じている。


皆はどの視点から物観てる?
いわゆる、一般的視点と呼ばれるもので観てる?
その一般的視点ってなんだと観じてる?


どこかの文化で、犬を食べるために殺すのは"あたりまえ"だが、
その文化が日本だったら通報される可能性は高い。

変だねって?
通報されるのが?
それは、通報したいと思う人がいるからじゃん?
通報した人が通報したいと思ったから。

通報される人=Aさん 通報する人=Bさん


Aさんの処罰のされ方に疑問を持ってるって?
それも処罰をしたいと思う人が決めたのでしょう。

虐待は好くないことだけど、なんか、変だよねって?
俺が言うなら、「そうなっている」っていうことだね。
決め付けとかではなくて。
人が集まって家族になり、家族が集まって、民族になるっていうか。


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この会話をしていて解ったこと。
生きる道に沿うこと。
感情で動いている人々。
それが泥の中だと観じたこと。
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生きる道とは、生命の道で、
誰だってなにかを殺して生きている。
生きていこうとすれば、なにかを食べなければならない。
動物を殺して肉を食べる。
芋を食べるためには、土から掘り起こして食べる。
それは土の中の芋を栄養とするものから、食べ物を奪うようなもの。


食物連鎖
自分自身が という意味だけではなく。
生きるということは、連鎖しているっていうことだね。


よくお坊さんが持っている、蚊を払うためのアレってさ、
蚊であっても殺生しないようにするための工夫なんだってね。

あれって、無益の殺生って言うんだっけ?
無益の殺生はしない。
有益とはなんだろうね。

この定義を、自分が生きる為 だとするなら正しいよね。
食べなきゃ生きられない。
食べなければ死ぬ。


病気を防ぐ為の殺生はだめなのだろうかって?
っていうか、今気付いたよ。
自分の中でバランスをとろうとすることと、
世界がバランスをとろうとしていることは、同じことをしているということ。
もちろん、自分の中と世界とのバランスという基準は違うけども。
病気を防ぐ為に殺生をすると、生態系のバランスが崩れる。
それは大きな弊害をもたらすよね。

病気に成ったからといって、
薬を飲んだり、切除したりすれば身体のバランスが崩れる。


んで、本題に戻る。

通報されたAさんは、なんで裁判を受けなければならんのかって?
それが社会というものになっているから・・・。

それが社会と言うなら、私もそういう人を通報せねばならんのではないかって?
んー。言いたいことが違う。
社会という枠があって、それに流されろと言ってるんじゃないんだ。

社会ってさ、
まとまっているようで、まとまってなくて、決まっているようで自由だって?
なんていうか、
木は木だ。
森は森だが、森はすべて木だ。





通報され、処罰される

なんか、今、答えが出せたかも。

通報しても、処罰しても、過去は変わらない。
だから、
Aさんがどうしてそういうことをするのかを理解する必要がある。
そして、それが正しいと思っている理由はなにか。

反対に言えば、俺が正しいと言えるものはなにか。

罪を憎んで人を憎まず

つまり、
Aさんに行為の反省を促すしかない。
処罰を与えることもまた反省の一部ではあるのだが。
その処罰が愛からくるものなのか、それとも、感情からくるものなのか。

AさんもBさんもさ
両方に問わなきゃいけないんじゃないかな。
なにが正しいというものは無い。"在る"けど、無い。
正しいと「思っている」ものは"有る"だろう。

Bさんは問われない気がしているって?
問われないのはなぜだと思う?

Aさんの方が正しくない って思う人が多いのが世間だからかも知れないって?
そう。
でも、それが正しいというわけでもないというところが 変 なんだよね。

その変と思っているものをさ
ひとつ上から観ると、それもそうなっているもののひとつなんだよね。
世間という言葉で興味を亡くすと観えなくなる。

世間とは、森。
その森には、こんな木が在り、こういう木も在る。
森とは、言葉。社会とは、言葉。


結局のところ納得できていないって?
それは、Aさんが処罰されることについて?
それとも、Aさんの処罰の度合いについて?
それとも、Bさんが通報することについて?

これらは絡み合っているけど、
すべてでひとつであって、ひとつじゃないよ。


Bさんが通報すること
ひとつとって考えていく必要がある。

カマキリを殺して、通報されないのはなぜかって?
なぜだと思う?

きっと、Bさんにとってどーでもいいものだからだって?
うん。そうかも知れないね。





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この話をしていて気付いたこと。

汝自身を知れ だと観じてる。

自分が知っているものには答えが出せる。
というより、その答えは自分が知る以外にない。
人事だと思っている中に、自分の答えは出せない。
自分の事だから、自分の事として答えが出せる。

知りたい答えは、自分が納得する為に求めているものだから。

正直、この話の具体的な「在り方」は解っていない。

俺が解っているのは、
葉を見て木を見ず
木を見て森を見ず
この逆も然りだということ。

この関係を離れて観ることができることを大事だとも観じている。
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駄文な上に長文で申し訳ないw

 

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