無器無量

2005年1月18日
「自分とは、こういう者」という囚われを無く為て行けば

自然に自分が観えるように成って来る

 
雲の様に為せず

水の様に為せず

我々は何故闘わ為ければ成れない?

 

事実の裏に真実在り

2005年1月15日
友達からも被災地からの真実が送られてきました。
長いですけど、よろしければ読んでみて下さい。

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やっぱり、というか驚愕というか。 メダンにいらっしゃるTAKAさんからの今までよりもやや総括的で、それゆえいっそうインパクトの強いお便りです。いったん帰国なさるのでこれが第一期の最終章になるかもしれません。皆様にお知らせください。もし外国語の翻訳できれば海外の方達にも是非。  mixi

今日も朝から、地元TVではアッチェの被災地の映像とレポーターの悲しみを誘う話が続く。どれも、この2週間同じ映像が流れ続け、レポーターの話の内容も一向に変わり映えしない。そう、マスコミの全てが、何かを深く、固く覆い包み、隠している。26日朝、激震を受けたとき、妻は生まれたばかりの赤ん坊を胸に抱いて母乳を与えていた。もし、ベッドの上に寝かしたままだったら、下の固い陶器製のタイルで、赤ん坊の頭は頭蓋骨陥没になっていただろう。あらためて我々に運があることを感じていた。急いで、TVをつけニュース番組を探した。画面には日本のようにいち早くテロップが流れるなど無く、延々とお笑い番組の馬鹿笑いと、濃い目の化粧をした歌手たちの歌が続いていた。その日は、一日待っても、地震の情報、ましてや津波の警報など無かった。我々は、地震の規模の割には大した被害もなかったのだろうか、と安心して少し余震が残る部屋で眠りに着いた。しかし、このとき既にアッチェでは津波で10万人近い人々が亡くなっていたのだった。それから2日間、被害を伝える映像は、ここ北スマトラで最大の人口200万都市のメダン市では流れなかった。ただ、ニュースの合間にキャスターへ現地からの電話だけが時折入る程度だった。このときに既に報道規制が入っていたのではないだろうか。日本であれば、マスコミはすぐに情報収集に関係機関へ走るだろうし、自社のヘリコプターを飛ばしいち早く現場に飛び、最新の映像を送っただろう。あまりにも、静かだった。情報がほとんど無いことに疑問を感じた私は、日本から持ってきていたラップトップで、web情報を日本サイドからとることを思いつき、キーを打ち始めた。画面に現れた現実に、私は、愕然とした。家族たちへ、日本からの情報を流し、友人たちへ事実を伝えるのが私に出来る唯一のことだった。先に話した、ボランティア活動をしている高さんたちは、既にこの28日の時点で、台湾当局と連絡を取り合い、既に医療チームとレスキューチームを飛行機で現地バンダアッチェへ送っていたのだ。海外の情報と対応が当のインドネシア政府、マスコミより速い。何故だろう?? 電話などの連絡網がインドネシアは遅れているのか。否、街では日本並み、それ以上にNOKIA製の携帯電話が氾濫、メールはあちこちで飛び交っている。この携帯がすべてアッチェにつながらなくなった。1月4日、やっと政府は住民用の回線をつないだ。津波発生から9日目である。最大の被災地メラブにいたっては、12日後の1月7日である。では、インドネシア政府はその間何をしていたのだろう。小出しに出てくる情報から少し事実が見えてきた。インドネシア政府は、1970年代から独立運動地アッチェに対し強硬な対抗手段をとってきた。アッチェの年間予算の約6倍の予算を使い政府軍を送り込んでいる。この軍隊が津波当日、アッチェで大規模な軍事訓練を行っていたらしい。その為、軍事訓練参加者の多くが死亡している。警察官もバンダアッチェだけで、1500人が死亡している。想像されることは、政府はこの軍隊の家族の救援に全力を注いだことである。このための報道規制、通信規制、民間への救援規制の可能性がある。その間に、何人の救われた人が死んでいっただろう。これで、あれだけの多くの救援物資がありながら、現地の被災者に届かなかった訳が見えてくる。現地の人が一番先に恐れていたのが、インドネシア政府軍隊だった。略奪、レイプを怖れたのだ。事実、避難後再びメラブの妹の婚約者が2人で住んでいた家に貴重品を取りに戻ったところ、貴金属、お金、そして男物の洋服が盗まれていたが、妹の洋服は全てそのままだった。もし被災者がやむにやまれず入ったのであれば、男女とも洋服は必要だったろうが、男物のみとなると、軍隊しか考えられないというのが、婚約者の話だった。政府は被災者救援に軍隊を送ったのでなく、軍隊救済のために軍隊を送ったのである。インドネシアの一般市民から、現大統領に対する不信感は高まるばかりである。地元TVは、連日海外からの来賓客を迎え、多額の義援金をもらい、しかも過去の借金まで棒引きにしてもらえるボーナスつきの恩恵にあずかり、笑みを浮かべる大統領の顔が映し出されている。おそらく日本のマスコミには流されていないかもしれないが、現地アッチェでは「政府はアッチェを利用して海外から借金をするな!」というプラカードを掲げてデモが行われている。そう、政府は対立するアッチェの勢力を抑えることが出来ること(住民の5分の1が死亡)、アッチェの経済の立ち直りに5年から10年はかかるがそれをコントロールできる可能性があること、アッチェの被害を理由に多額のお金が手に入る(政府高官の懐が潤う)こと、過去の多額の借金が帳消しになること、政府はお金を一切出さずにいられること、しかもその上に海外から借金をしようということ、濡れ手に粟とはこのことである。政府としては、笑いが止まらないだろう。救援物資が軍の飛行場で野積みのままであるのは周知の事実。いくら海外が支援の物資を送っても、それをインドネシア政府や軍に渡せば、そのほとんどが彼らの懐に入ると考えるべきである。ましてや、日本政府のように、お金の問題で済ませようとするならば、近隣諸国の高級住宅地に政府高官たちの別宅が半年後に立ち並ぶだろう。ただ、海外の軍隊がアッチェに自ら救援物資を運べば、話は別である。まず、インドネシア政府軍の略奪、レイプが抑制されるからである。彼等は、海外の軍隊が入ってくれば何も出来ない。だから、被災者たちは、海外の救援物資も嬉しいが、それ以上に海外の軍隊の駐留にほっとしている。被災地の安全を確保してくれるからだ。それにしても、近隣諸国、特にアジアの同胞達の民間支援の早さとと確実性には、驚かされる。町の85%の建物と人命が失われたメラブに、津波発生2日後には、シンガポールの貨物船がやってきて、瓦礫をかたずけるショベルカーなどの土木重機を運び込んで救援活動に入っている。近くの村々からは、被災を免れ人々から手渡しで食料が運ばれ、被災者達の命を救っている。日本でも、神戸の震災で多くのボランティア達の活動が被災者達の心に活力を与えた。これだけ通信ネットで国境が無い世の中になったのだから、政府どうしのやり取りなどあてにせず、民間のレベルでいち早く、いかに確実に支援、協力できるか、みんなの持てる全ての力を出し合うことで実現することは可能である。そうなれば、どんなに被災者たちは救われるだろう。
TAKA

成功為せる

2005年1月11日
ここで日記を書き始めて3度目の抱負を書く。

去年、一昨年からの抱負は同じく今年も抱負としているけど、
特に具体的なものが観えたので明記しておくことにする。

字で表せば「成功」。
"成就するまでに 時間が掛かる"ものを"成就する"こと。

全然具体的な抱負には見えませんけどねw

 

十実

2005年1月10日
自分の感覚を言葉で表現することは、難しい。

自分の感覚を伝えるには、その人が自分でその感じを覚ってもらうしかない。

人の言葉を聞いただけでは、自分の実には生らないから。

百聞は一見に如かず

一見できる者は、知識を実にできる者。

そして
何時しか、一を聞いて十を知る者に成る。


沢山の実を身に付けている者

それは

心の充実を知る者

 

変え方と変わり方

2005年1月7日
環境が人を変える

選択に由って人は変わる

環境を選ぶ自分に由って

自分は変わることができる

 

2005年1月7日
思いが浮ぶと書きたいなと思う

でも

その思いもまた浮かんでは消えて行く

 

開心

2005年1月4日
俺はなにを為てあげられるんだろう
俺はなにを伝えることができるんだろう

俺はこれを伝えることができるんだろうか

伝えようと為無ければ伝わらないものを
いくら思考しても伝わりは為無い
俺が伝えようと為無ければ
いつまで経っても伝わりは為無い

相手が感じて呉れるのを待つのは止めよう

俺が伝えようと為無ければ
これは形に成ら無いものなんだ
俺が伝えようと為無くとも
ここに居る自分が 形そのものなのに ね

伝えることは 伝えようと為ることで 成る
伝えようと為ることは 感じ動くことで 成る
感じて居るから 動くことが出来て居る

あとは
開くだけなんだ
他の誰でもない 自分の為に

伝えようと為無くとも伝わるものを伝える方法

それが
開放であり 解放なんだ

 
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実家へ帰って来て、母の姿を見て感じたこと。
老いたな と。

なぜ、父や妹達より早く寝ない。
なぜ、自分の身体を一番に考えてくれない。
そう俺が思っても、母には母の考えがある。

そこで本文になったんだ。

口下手な俺は直接それを言葉で伝えることができない。
いや、面と向かって言うのが照れくさいということもある。
でも、いずれは言いたいと思っていても、
言う機会が来なくなってしまうかも知れない。
そう考えると
今できる、今したいやり方で伝えればいいじゃん と。

それが
開放であり 解放であり
素直なんだ

と、今の俺にはそう観えたんだ。

 
__________________________________________________________

書いている最中は"___"の中は秘密日記のつもりだった。
でも、秘密にする理由などなかった。

 

回り道、廻る道

2005年1月3日
寄り道している自分も悪くないな。
自分を感じて行く中で、
その感じているものを自覚して行く過程で。


浮かんで行くもの
過ぎ行くものをただ観て居ることができず

浮かんで行くもの
過ぎ行くものに囚われる自分

ぜんぜん、有りだな

そう思えた自分

あぁ、全然問題ないじゃん

俺はこうやって歩んで来たんだ

 
夢から目覚めた先に、本当にやりたいことがあるよ。


自分を見つめて観て思うことがあった。
俺はなにを為てるんだろう・・・ と。
でも、それが、
自分を見つめることが、とても大切なことだったんだ。

今という現実は

自分を観ようと為なければ、
決して真摯には受け入れられないことだと覚った。

夢から醒めた先に、現実は在ったんだ。

 
辛さを抱え 苦しみを抱え

楽しみを抱え 喜びを抱え

生きて居る

 

「功」

2004年12月31日
今年一年の一文字に、「功」を選ぶ。
俺自身に対する一文字。
"成就するまでに 時間が掛かる"という意。


7月から学び始めたもの
それによって、これから自分がどう変わって行くのか楽しみにしている。


それでは皆さんよいお年をw

 

日記を書くことで

2004年12月31日
日記を書き始めて、自分の伝えたい物が観得て来た。
日記を書き始めて、自分の伝えたい事が観得て来た。

日記を書き始める前から、自分を観ては居た。
でも、自分を察しては居なかった。

日記を書くことで、
自分がなにを書きたいのかを知ろうとすることで、
ただ観ることから、徐々に観て察することに変化して行った。

 

「咸」の心

2004年12月27日
書いても日記に載せないものはある。
そして、これもその載せないものの抜粋ではなく、ほぼ別物。


世界は自分の鏡
自分の姿を観てなにを思う

人を変えようとする
その苛立ちが自分の中にあると知らない

誰かが其処に居るからそう感じれることを
誰かが此処に居るから感じていることを

覚っていない

 

すべてはここにある

2004年12月23日
日常こそが全て

全ては今

此処に在る

 

誰そ彼

2004年12月22日
何の為に生き
何の為に死ぬ

生きる為に生き
死ぬ為に死ぬ

死ぬ為に生き
生きる為に死ぬ

生きて居るから生きて居る
生きて居るからこそ生きて居る

生きて居る君はどう生きる

陽は落ちても

陽はまた昇る

 

Dragostea Din Tei

2004年12月20日 音楽
菩提樹の下の恋

この曲

好きです

 

日々是好日

2004年12月19日
俺は、
何時も誰かに教えて貰って居る。

今、俺に必要な物。

其れが何なのか。

今、自分がどんな時期に来て居るのか。

俺が為すに足る切っ掛けが、
全ての行動、在りの儘に散りばめられて居る。


自分は何を為せば好い?
そう自分に質を問う事も有るだろう。

其れは、
今日一日生きた事を省みれば自然に覚る事。

今、生きて居る事を省みれば
自分の姿が観得るよ。


紛れも無い事実が此処に在るよ。

嘘偽りの紛れ込め無い真実が此処に在るよ。

 

「皆」と「自分」

2004年12月13日
日々思い、日々考えている自分。
だからこそ、解放することを知り、解放させ始めた。
今も尚、迷いながら。


誰かが伝えようとしている。
苦しみ、哀しみを。
そして、楽しさ、喜びを。

悲しみを知るもの。
慈しみを知るもの。

皆それぞれ
なにかを思い、なにかを考えている。


誰かが俺に伝えてくれた。

「皆」と「自分」の観方を。

「天下」と「唯我」なのだと。


天下は一人の天下にあらず、乃ち天下の天下なり

 

所以

2004年12月12日
寂しがったり 怒ったり

誰かの所為に為たい自分が

此処に居ます

 

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