気を付け、礼
2004年6月15日そんなに無意味に思えるのだろうか。
そして、そんなに権威主義的慣習なのだろうか。
権威主義的に観えるのは、
教える側と学ぶ側の物事に取り組む姿勢の問題。
何の為の挨拶なのか分から無ければ、確かに要ら無いのかも知れ無いね。
激しく同意ですw
でも、俺が思っていることと違う意味で言われてても悲しいけど。
こうやって、「礼に始まり、礼に終わる」その心は失われて行くのかも知れない。
形が問題と言ってるわけじゃないけど、
形は気持ちの現われという意味では、大きく切り離すことの出来ないもの・こと。
要は、何の為なのか分かり覚ることが大事ってことだね。
そして、そんなに権威主義的慣習なのだろうか。
権威主義的に観えるのは、
教える側と学ぶ側の物事に取り組む姿勢の問題。
何の為の挨拶なのか分から無ければ、確かに要ら無いのかも知れ無いね。
教師や父母の間には「礼儀と秩序をきちんと教えることは大事」との反対論も根強いという。
Yahoo!ニュースより
激しく同意ですw
でも、俺が思っていることと違う意味で言われてても悲しいけど。
こうやって、「礼に始まり、礼に終わる」その心は失われて行くのかも知れない。
形が問題と言ってるわけじゃないけど、
形は気持ちの現われという意味では、大きく切り離すことの出来ないもの・こと。
要は、何の為なのか分かり覚ることが大事ってことだね。
無為自然
2004年6月14日最近、観得て来て居る物が在る。
「自分」というバランスは、
自分の行動だけではなく、自分の言葉だけでもなく、
自分の思いもまた、バランスをとらねば成らず、
自分でバランスをとろうと為ると、そこからバランスは崩れて行くのだ と。
自分でバランスをとっては行けない。
では、どう為ればバランスは整うのか―――。
その答えは、
自分を自分が覚る事に因って、自ら然る様に調って行く心の中に在る。
「自分」というバランスは、
自分の行動だけではなく、自分の言葉だけでもなく、
自分の思いもまた、バランスをとらねば成らず、
自分でバランスをとろうと為ると、そこからバランスは崩れて行くのだ と。
自分でバランスをとっては行けない。
では、どう為ればバランスは整うのか―――。
その答えは、
自分を自分が覚る事に因って、自ら然る様に調って行く心の中に在る。
それがすべてさ
2004年6月13日心を感じようとすれば、心は遠ざかる。
心を感じようとしなければ、心は遠ざかることもあるが、近づくことの方が多い。
感じようとしないということは、無意識ということ。
無意識っていうことは、自然ということ。
本当の自然という意味では違うけど。
在るがままに感じるって事が大切って意味かって?
うんうん。その通りだね。
なにも考えず、なにも思わず。
ただ、在るがままを在るがままに感じる。
そこに結果はないんだ。
在るのは感じている過程だけ。
心を感じようとしなければ、心は遠ざかることもあるが、近づくことの方が多い。
感じようとしないということは、無意識ということ。
無意識っていうことは、自然ということ。
本当の自然という意味では違うけど。
在るがままに感じるって事が大切って意味かって?
うんうん。その通りだね。
なにも考えず、なにも思わず。
ただ、在るがままを在るがままに感じる。
そこに結果はないんだ。
在るのは感じている過程だけ。
精神年齢鑑定 新EQテスト
2004年6月12日********
新EQテスト結果
********
あなたの精神年齢です
生活年齢(実際の年齢) 23歳
精神年齢 39歳
知能年齢 39歳
変化対応年齢 39歳
コミュニケーション年齢 35歳
自我年齢 43歳
元気・やる気年齢 40歳
http://www.euc.co.jp/
新EQテスト結果
********
あなたの精神年齢です
生活年齢(実際の年齢) 23歳
精神年齢 39歳
知能年齢 39歳
変化対応年齢 39歳
コミュニケーション年齢 35歳
自我年齢 43歳
元気・やる気年齢 40歳
http://www.euc.co.jp/
「無宗教」と言う名の宗教
2004年6月12日書き表しておきたいことがひとつ。
「無宗教」は、宗教のひとつだ。
宗教を偏見で観れば、捉え方が違うのも当然。
言いたいことは、宗教がどうということではなくて、
無宗教がどうということでもない。
要は、考え方の問題なんだ と。
だから、無宗教もまた「宗教」という枠の中のひとつだ。
「無宗教」は、宗教のひとつだ。
宗教を偏見で観れば、捉え方が違うのも当然。
言いたいことは、宗教がどうということではなくて、
無宗教がどうということでもない。
要は、考え方の問題なんだ と。
だから、無宗教もまた「宗教」という枠の中のひとつだ。
在るがままに
2004年6月11日在るがままを在るがままに感じる。
在るがままを在るがままに観じる。
難しく感じるかも知れないが、これをしようとすることは、
落ち着きを手に入れるようとすることに同じ。
在るがままを在るがままに観じる。
難しく感じるかも知れないが、これをしようとすることは、
落ち着きを手に入れるようとすることに同じ。
それは、期待と心配で織り成すもの。
2004年6月10日なにかを探している自分を言葉で表現する。
この事自体、
その「なにか」は、半分手に入っている。
あとの半分は、
手に入っている半分がなぜ手に入っているのかを理解することで得られる。
不安とは、大きな期待と小さな心配で起こっているもの。
今の俺は、そう観じて居る。
この事自体、
その「なにか」は、半分手に入っている。
あとの半分は、
手に入っている半分がなぜ手に入っているのかを理解することで得られる。
不安とは、大きな期待と小さな心配で起こっているもの。
今の俺は、そう観じて居る。
道
2004年6月8日落ち着きとは、自分を見失わないこと。
外面がどうということではなく、内面がどうということでもない。
自分が、自分を、見失わない。
これが落ち着きというもの。
今の俺は、そう答えて居る。
外面がどうということではなく、内面がどうということでもない。
自分が、自分を、見失わない。
これが落ち着きというもの。
今の俺は、そう答えて居る。
6月7日の日記
2004年6月7日土日の熱の件があって以来、
結局、器と泥水の関係の感覚を忘れましたとさ_| ̄|○
大事なのは原点だね。
いつでも、原点のままでいられるように。
あ、風邪は治りましたw
結局、器と泥水の関係の感覚を忘れましたとさ_| ̄|○
大事なのは原点だね。
いつでも、原点のままでいられるように。
あ、風邪は治りましたw
無題
2004年6月6日昨日「The Day After Tomorrow」観てきた。
いやぁ、かなり気象学に興味持ちましたw
隣の席で推定小2くらいの子供とその母親の親子が観てて、
だいたい30分経った頃らへんから子供の落ち着きがなくなり始め、
眠ってくれるならいいんだけど、母親に話しかけることが増え始めました。
それを間近で見えている俺はと言うと、
子供は落ち着きのないものであって、興味の対象が違うってことを思いつつ、
あまり気にせず映画を観ることができましたw
そしてついには、
1時間強過ぎた頃、敢え無く親子そろって退席と相成りましたとさ。
※映画以外を遮断することが集中だと言っていないことに注意
っていうか、風邪引きました。2年ぶりくらいの頭ガンガンですw
金曜日の夜の段階で喉が痛いなぁとは思ってたんですが、
土曜日には扁桃腺が腫れ上がり、なにするわけでもなく普通に痛い。
んで、夜には熱が上がり始め、深夜には少しずつ頭が痛くなり、
熱による関節の痛みもちらほらと・・w
俺の場合、風邪薬とか飲まないので、自然治癒力に任せてるわけですが、
今回のはけっこう長引きそうな気配。
いやぁ、かなり気象学に興味持ちましたw
隣の席で推定小2くらいの子供とその母親の親子が観てて、
だいたい30分経った頃らへんから子供の落ち着きがなくなり始め、
眠ってくれるならいいんだけど、母親に話しかけることが増え始めました。
それを間近で見えている俺はと言うと、
子供は落ち着きのないものであって、興味の対象が違うってことを思いつつ、
あまり気にせず映画を観ることができましたw
そしてついには、
1時間強過ぎた頃、敢え無く親子そろって退席と相成りましたとさ。
※映画以外を遮断することが集中だと言っていないことに注意
っていうか、風邪引きました。2年ぶりくらいの頭ガンガンですw
金曜日の夜の段階で喉が痛いなぁとは思ってたんですが、
土曜日には扁桃腺が腫れ上がり、なにするわけでもなく普通に痛い。
んで、夜には熱が上がり始め、深夜には少しずつ頭が痛くなり、
熱による関節の痛みもちらほらと・・w
俺の場合、風邪薬とか飲まないので、自然治癒力に任せてるわけですが、
今回のはけっこう長引きそうな気配。
道付く
2004年6月5日器と泥水が観え、解り始めてから、
落ち着きというものが身体でも感じれるようになってきた。
具体的には身体でどんなものが感じれるかっていうと、
まず、音。
ガヤガヤ騒がしいところとかで落ち着いていると、
騒音が、一纏まりに聞こえてくる。
んで、皮膚っていうか筋肉。もしくは、体温。
体温は、自分の気持ちを高めるだけで上げることができる。
その自分の気持ちと、筋肉の弛みが混ざって調和した時、
身体の調整力が働いてくる。
その時身体は、温かいより少し熱い気味に俺の場合はなる。
そして、意識。
意識を集中して居られることで得られる落ち着き。
その落ち着きを感じることで得られる静かな気持ち。
まぁ、なんていうか。
答えを自分で見い出さないと、先へは絶対に進めない。
人がなんと言おうと、自分で見い出して行かない限り進みやしない。
人に後ろから押されても自分は進まない。
相手を後ろから押してあげても相手は進めない。
自分が見い出したから。
その人が自分で見い出したから。
だから、進めるんだ。
教えることは、導くことだけど、
答えを教えることは、できないんだ。
自分の答えは、その人の答えではないから。
その人の答えを自分が分っていたとしても、
その人が自分で覚らない限りその人の答えにはならないんだ。
つまり、
導くことは、その人が自分で覚るように教えて行くことなんだね。
そうすることで、
二人ともが導かれて行くんだね。
落ち着きというものが身体でも感じれるようになってきた。
具体的には身体でどんなものが感じれるかっていうと、
まず、音。
ガヤガヤ騒がしいところとかで落ち着いていると、
騒音が、一纏まりに聞こえてくる。
んで、皮膚っていうか筋肉。もしくは、体温。
体温は、自分の気持ちを高めるだけで上げることができる。
その自分の気持ちと、筋肉の弛みが混ざって調和した時、
身体の調整力が働いてくる。
その時身体は、温かいより少し熱い気味に俺の場合はなる。
そして、意識。
意識を集中して居られることで得られる落ち着き。
その落ち着きを感じることで得られる静かな気持ち。
まぁ、なんていうか。
答えを自分で見い出さないと、先へは絶対に進めない。
人がなんと言おうと、自分で見い出して行かない限り進みやしない。
人に後ろから押されても自分は進まない。
相手を後ろから押してあげても相手は進めない。
自分が見い出したから。
その人が自分で見い出したから。
だから、進めるんだ。
教えることは、導くことだけど、
答えを教えることは、できないんだ。
自分の答えは、その人の答えではないから。
その人の答えを自分が分っていたとしても、
その人が自分で覚らない限りその人の答えにはならないんだ。
つまり、
導くことは、その人が自分で覚るように教えて行くことなんだね。
そうすることで、
二人ともが導かれて行くんだね。
落ち着きとは、泥水を水と泥に分けること。
2004年6月2日器
泥水
分離
水と泥
泥が沈む
水が澄んでくる
その状態を維持する
ふと、まわりの音が聞こえてくる
目の裏に閃光が瞬く
感が繋がり
全身へと広がる
泥水
分離
水と泥
泥が沈む
水が澄んでくる
その状態を維持する
ふと、まわりの音が聞こえてくる
目の裏に閃光が瞬く
感が繋がり
全身へと広がる
目を瞑って風呂に入る
2004年6月1日そういえば、ここ1週間くらい、風呂は真っ暗にして入ってる。
最初は、真っ暗なことに妄想が働きまくる。
でも、妄想を置いておいて、そこからまわりを感じ始めたら、
いつのまにか普通に入っていられるようになった。
最初は、真っ暗なことに妄想が働きまくる。
でも、妄想を置いておいて、そこからまわりを感じ始めたら、
いつのまにか普通に入っていられるようになった。
思いの通り
2004年5月31日それは、思い通りに行ったって、思い通りに行かなくたって、
それは、それに変わりはない。
気持ちが変わってくることで、環境って変わってくるもんだねぇ。
しみじみ観じてます。
良くも悪くも思いのまま。
それは、それに変わりはない。
気持ちが変わってくることで、環境って変わってくるもんだねぇ。
しみじみ観じてます。
良くも悪くも思いのまま。
晴れ晴れ
2004年5月30日昨日「TROY」を観て来た。
感想はいつも通り割愛しますが、気付いたことがある。
今までの時代が在って、現代が在るのだと。
痛みを覚えていなかった頃、奪い奪われ、殺し殺されていた時代。
優しさを覚えていなかった頃、己の利己の為に傷付け傷付いていた時代。
今までの時代は、今の時代、現代にも当てはまる。
食生活のことを考えて気付いてきたことがある。
植物の生き方は、無償の愛なんじゃないか? と。
最近の気の話。
落ち着きについて観察してたりして。
落ち着いていくことを形で表すなら、
器に入っている泥水。
その泥をかき混ぜて置く。
そして、
それをじっと観ているようなもの。(微妙ですがw)
なんていうか、
自分は、器。
水は、気持ち。
泥は、思いや感情。これもまた、気持ち。
落ち着いていくことは、気持ちが落ち着いていくことなんだけど、
自分が落ち着こうと動けば、忽ち落ち着きはなくなってしまう。
落ち着いていくことは、泥水が泥と水に分離していくことなんだけど、
器が揺れ動いてしまっては、忽ち泥と水は入り混じり、元の泥水と化す。
器を観れば、水が観える。
水を観れば、器が観える。
落ち着きって、泥の沈んでいる深さを言うのかも知れないね。
器が輝いてくるのは、水が澄んでくるから。
自分が輝いてくるのは、気持ちが晴れてくるから。
晴れ晴れ。
晴晴。
清清。
感想はいつも通り割愛しますが、気付いたことがある。
今までの時代が在って、現代が在るのだと。
痛みを覚えていなかった頃、奪い奪われ、殺し殺されていた時代。
優しさを覚えていなかった頃、己の利己の為に傷付け傷付いていた時代。
今までの時代は、今の時代、現代にも当てはまる。
食生活のことを考えて気付いてきたことがある。
植物の生き方は、無償の愛なんじゃないか? と。
最近の気の話。
落ち着きについて観察してたりして。
落ち着いていくことを形で表すなら、
器に入っている泥水。
その泥をかき混ぜて置く。
そして、
それをじっと観ているようなもの。(微妙ですがw)
なんていうか、
自分は、器。
水は、気持ち。
泥は、思いや感情。これもまた、気持ち。
落ち着いていくことは、気持ちが落ち着いていくことなんだけど、
自分が落ち着こうと動けば、忽ち落ち着きはなくなってしまう。
落ち着いていくことは、泥水が泥と水に分離していくことなんだけど、
器が揺れ動いてしまっては、忽ち泥と水は入り混じり、元の泥水と化す。
器を観れば、水が観える。
水を観れば、器が観える。
落ち着きって、泥の沈んでいる深さを言うのかも知れないね。
器が輝いてくるのは、水が澄んでくるから。
自分が輝いてくるのは、気持ちが晴れてくるから。
晴れ晴れ。
晴晴。
清清。
揺らぎのない気持ち
2004年5月29日揺れ動かない気持ちの中で、「幸せ」は観じられるものだ。
揺れ動く気持ちの中で観じている「幸せ」と呼んでいるものは、
感情という名の喜怒哀楽のことだろう。
「幸せ」とは、揺れ動かない気持ちの中に在るもの。
下から上を観る
上から下を観る
右から左を観る
左から右を観る
「どちらか」ではなく、「どちらも」観る。
だから、偏りがなくなっていくんだね。
こうやって、
偏りという揺れ動く気持ちを
少しずつ水平に保つことができるようになっていくんだね。
偏りとは、価値観とも呼べるかも知れないね。
自分の価値観を偏りなくしていくことは、
誰かの価値観を知っていくっていうことなんだね。
自分の気持ちを偏りなくしていくには、
誰かの気持ちを知っていくっていうことなんだね。
結局、行き着くところは、
誰かの答えと自分の答えを照らし合わせるっていうこと。
答え合わせは、答えを持っているからできる。
答えは、気付くことで見付かるもの。
でも、
気付けば気付くほど、答えが増えるというわけじゃない。
気付けば気付くほど、答えは変わっていくものなんだ。
いつでも、どんなときでも、自分の答えはひとつ。
その答えは、いつも同じというわけじゃない。
答えが別れていると思うこともあるだろう。
でも、
答えは分れていても、別れてやしないよ。
別れてやしないんだよ。
揺れ動く気持ちの中で観じている「幸せ」と呼んでいるものは、
感情という名の喜怒哀楽のことだろう。
「幸せ」とは、揺れ動かない気持ちの中に在るもの。
下から上を観る
上から下を観る
右から左を観る
左から右を観る
「どちらか」ではなく、「どちらも」観る。
だから、偏りがなくなっていくんだね。
こうやって、
偏りという揺れ動く気持ちを
少しずつ水平に保つことができるようになっていくんだね。
偏りとは、価値観とも呼べるかも知れないね。
自分の価値観を偏りなくしていくことは、
誰かの価値観を知っていくっていうことなんだね。
自分の気持ちを偏りなくしていくには、
誰かの気持ちを知っていくっていうことなんだね。
結局、行き着くところは、
誰かの答えと自分の答えを照らし合わせるっていうこと。
答え合わせは、答えを持っているからできる。
答えは、気付くことで見付かるもの。
でも、
気付けば気付くほど、答えが増えるというわけじゃない。
気付けば気付くほど、答えは変わっていくものなんだ。
いつでも、どんなときでも、自分の答えはひとつ。
その答えは、いつも同じというわけじゃない。
答えが別れていると思うこともあるだろう。
でも、
答えは分れていても、別れてやしないよ。
別れてやしないんだよ。
小さな答え。それは、確かな前進。
2004年5月28日なんか強いて書くことってなくなってきたw
メッセとかの話の中でならいろいろとないわけじゃないけど。
それでも、人に言うことは少なくなってきた。
実際話してても、あんまししゃべらなくなったように観じてる。
誰かに言うべきことってほとんどないんじゃないか と。
誰かに話すべきことってほとんどないんじゃないか と。
誰かに伝えたい
そう思うのは、伝えたい自分が居るから。
伝わってもらいたくて。
自分と分かち合って欲しくて。
知りたい答えを探して
時の道をさ迷い歩く
小さな答えをひとつ解く度
小さな心のわだかまりが泡となって浮かんでいく
次第に泡は大きくなって
大きな答えは解けていく
なにも変わらない いつもの小さな答えに
小さな小さな変化を感じて
メッセとかの話の中でならいろいろとないわけじゃないけど。
それでも、人に言うことは少なくなってきた。
実際話してても、あんまししゃべらなくなったように観じてる。
誰かに言うべきことってほとんどないんじゃないか と。
誰かに話すべきことってほとんどないんじゃないか と。
誰かに伝えたい
そう思うのは、伝えたい自分が居るから。
伝わってもらいたくて。
自分と分かち合って欲しくて。
知りたい答えを探して
時の道をさ迷い歩く
小さな答えをひとつ解く度
小さな心のわだかまりが泡となって浮かんでいく
次第に泡は大きくなって
大きな答えは解けていく
なにも変わらない いつもの小さな答えに
小さな小さな変化を感じて