alway original
2004年3月3日身体を弛め
意識で思うことなく
今より遠ざかることなく
聞く
朝ちょっといつもの如く精神統一してた。
自分がなにもしていないと「思っていても」、
どんどん思う流れに「乗ってしまう」。
流されていることを自覚し、
「今」に戻る。
つまり、聞く姿勢に戻る。
本当に聞けている時っていうのは、なにも「思っていない」。
もちろん、意識はあるし、浮かぶものはある。
この浮かんで流れてくるものに乗ったらまた遠ざかる。
これを自覚し、止まる術を探す。
そして、行き着いたのは結局、「今」に戻る。
聞くことは、感じることでもある。
というより、聞くという動作は感じようとすることからくる。
だから、一心に聞けるということは、一心に感じられるということ。
「今」を感じること。
今の俺は、その筆頭に、聞くことを推奨する。
聞くことが、感じることに高まった時、
まわりの気を引き寄せ始める。
俺の場合は、まず、額の奥からだった。
んで、頭全体に引き寄せ始め、次第に全身で引き寄せ始めた。
それは、「今」を身体で感じているということ。
意識、身体の弛み、姿勢。
この3つが主な注意点。
俺が今日精神統一をした中で、目の裏が普段より数段明るくなった。
んで、胸の中心、前と後ろともに霊感に似た感覚が広がり始めた。
っていうか、ちょっとこの目の裏のが気になって調べて観てたんだけど、
俺のやってることって、なにに当てはまるのか判らないw
禅?瞑想?気功?仙道?
んで、考えてみた。
禅や瞑想、気功や仙道というのは手段・手法なんだ と。
俺が今までに培ってきたものは、精神的なものがほとんど。
それも自分のねw
自分の精神の不安を、自分で取り除くために。
自然とやってた。
俺のやってきていることがなにに当てはまるかなんて、当てはめる必要もない。
だって、俺は、俺。
たとえ、なにかに当てはまっていたとしても、俺のオリジナルなんだからw
俺の言う「思う」ことは、「思考」のこと。
思考をしていると、まわりが解らない。
考察はしていても、まわりが解る。
まわりが解るということは、観じられているということ。
自分の「考え方」次第で、まわりが解ったり解らなかったりする。
「思考」することが、まわりを遮断させていく。閉塞的な集中。
「考察」することが、まわりと同調させていく。開放的な集中。
昔は、「思考」することが集中だと思ってた。
でも今は、「考察」して集中する方がよっぽど好いものだと観じている。
まわりを遮断することで、それを得られる。
まわりと同調することで、それやそれの繋がりも得られる。
どちらも、「得られる」。
ただ、得られるものの差は、雲泥の差なんだ。
だからどうということでもないんだけどね。
1+1が2なのか、それ以上なのかの差だから。
でも、この差は、幸せをどれだけ感じているかの差でもあるんだよ。
意識で思うことなく
今より遠ざかることなく
聞く
朝ちょっといつもの如く精神統一してた。
自分がなにもしていないと「思っていても」、
どんどん思う流れに「乗ってしまう」。
流されていることを自覚し、
「今」に戻る。
つまり、聞く姿勢に戻る。
本当に聞けている時っていうのは、なにも「思っていない」。
もちろん、意識はあるし、浮かぶものはある。
この浮かんで流れてくるものに乗ったらまた遠ざかる。
これを自覚し、止まる術を探す。
そして、行き着いたのは結局、「今」に戻る。
聞くことは、感じることでもある。
というより、聞くという動作は感じようとすることからくる。
だから、一心に聞けるということは、一心に感じられるということ。
「今」を感じること。
今の俺は、その筆頭に、聞くことを推奨する。
聞くことが、感じることに高まった時、
まわりの気を引き寄せ始める。
俺の場合は、まず、額の奥からだった。
んで、頭全体に引き寄せ始め、次第に全身で引き寄せ始めた。
それは、「今」を身体で感じているということ。
意識、身体の弛み、姿勢。
この3つが主な注意点。
俺が今日精神統一をした中で、目の裏が普段より数段明るくなった。
んで、胸の中心、前と後ろともに霊感に似た感覚が広がり始めた。
っていうか、ちょっとこの目の裏のが気になって調べて観てたんだけど、
俺のやってることって、なにに当てはまるのか判らないw
禅?瞑想?気功?仙道?
んで、考えてみた。
禅や瞑想、気功や仙道というのは手段・手法なんだ と。
俺が今までに培ってきたものは、精神的なものがほとんど。
それも自分のねw
自分の精神の不安を、自分で取り除くために。
自然とやってた。
俺のやってきていることがなにに当てはまるかなんて、当てはめる必要もない。
だって、俺は、俺。
たとえ、なにかに当てはまっていたとしても、俺のオリジナルなんだからw
俺の言う「思う」ことは、「思考」のこと。
思考をしていると、まわりが解らない。
考察はしていても、まわりが解る。
まわりが解るということは、観じられているということ。
自分の「考え方」次第で、まわりが解ったり解らなかったりする。
「思考」することが、まわりを遮断させていく。閉塞的な集中。
「考察」することが、まわりと同調させていく。開放的な集中。
昔は、「思考」することが集中だと思ってた。
でも今は、「考察」して集中する方がよっぽど好いものだと観じている。
まわりを遮断することで、それを得られる。
まわりと同調することで、それやそれの繋がりも得られる。
どちらも、「得られる」。
ただ、得られるものの差は、雲泥の差なんだ。
だからどうということでもないんだけどね。
1+1が2なのか、それ以上なのかの差だから。
でも、この差は、幸せをどれだけ感じているかの差でもあるんだよ。
心の自由 放たれる心
2004年3月2日最近、湧き上がるものが少なくなった。
んで、
観ていると、ぱっとそれが解けることが増えた。
観察は、観て察すること。
洞察は、水と同じように察すること。
観るということ自体、動作の一部で、
察するということ自体、流れの一部。
なにかを思うこと自体、気持ちの一部で、
なにかを感じること自体、気持ちの一部。
囚われているとは、葉が木に、木が森に観えているということ。
捉えているとは、葉、木、森を観ているということ。
放たれたものの観方は、葉、木、森が観えるということ。
葉を見て木を見ず
木を見て森を見ず
結果を観ようとすればするほど、葉が観える。
過程を観ようとすればするほど、森が観える。
俺が言いたいのは、「それ」じゃない。
俺が言いたいのは、「それ」はそこに在るということなんだ。
解りたいことは、「それ」は「すべて」の一部だということ。
気付きたいことは、解ることで放たれていくものが在るということ。
気付いていくことで、そのものに気を付けていく。
気が付いていくことで、そのものに付けた気が、自然と繋がり始める。
繋がりは広がりと深さを持って、やがてひとつになる。
手放すとは、環境を変えることでも、観方を変えることでもない。
流れの中で自分「が」動こうとしないこと。
自分「が」思う通りに物事進むと思わないこと。
手放すとは、解るということであり、心の自由を感じることだとも観じている。
んで、
観ていると、ぱっとそれが解けることが増えた。
観察は、観て察すること。
洞察は、水と同じように察すること。
観るということ自体、動作の一部で、
察するということ自体、流れの一部。
なにかを思うこと自体、気持ちの一部で、
なにかを感じること自体、気持ちの一部。
囚われているとは、葉が木に、木が森に観えているということ。
捉えているとは、葉、木、森を観ているということ。
放たれたものの観方は、葉、木、森が観えるということ。
葉を見て木を見ず
木を見て森を見ず
結果を観ようとすればするほど、葉が観える。
過程を観ようとすればするほど、森が観える。
俺が言いたいのは、「それ」じゃない。
俺が言いたいのは、「それ」はそこに在るということなんだ。
解りたいことは、「それ」は「すべて」の一部だということ。
気付きたいことは、解ることで放たれていくものが在るということ。
気付いていくことで、そのものに気を付けていく。
気が付いていくことで、そのものに付けた気が、自然と繋がり始める。
繋がりは広がりと深さを持って、やがてひとつになる。
手放すとは、環境を変えることでも、観方を変えることでもない。
流れの中で自分「が」動こうとしないこと。
自分「が」思う通りに物事進むと思わないこと。
手放すとは、解るということであり、心の自由を感じることだとも観じている。
生きる心 「性」
2004年3月1日今年からずっとメガネかけてて、コンタクトは一度もはめてない。
もう、コンタクトの存在忘れてきてるw
っていうか、ほぼ忘れてたりしてw
んで、最近の俺の目。
前よりずっと落ち着いてきてる。
自分の顔観て、自分の心の状態が解る。
じーっと鏡越しに自分を凝視して観てると、
焦点が外れて輪郭がぼやっと見えてくる。
その状態でリラックスができていると、見えている色も変化してくる。
明るかったり暗かったり、黄色だったり緑だったり。
んで、ぼやっと見えている状態で、顔を見る。
そしたら、その時の心の状態の自分の顔が見える。
時には笑っていたり、時には哀しそうだったり。
なんか暗かったりとかね。
この状態で、笑顔の練習をするとけっこう好いと思う。
筋肉だけではどうしようもない。
自分の雰囲気を。自分の色を。
それに気付いて少しずつ解っていくしかない。
そしたら、ちょっとずつ心の状態の顔が変わってくるのが解る。
あぁ、俺はなにを言ってんだってねw
物事を直接変えるようなことっていうのは無くて、
すべてのものは変えなくても変わっていくもの。
変えることと、変わることの違い。
なにかを変えようとするとき、
変えようとしている自分は流れに乗れていないことを知ろう。
苦しみは流れに逆らうことで生まれる。
楽しみは流れに沿うことで生まれる。
無心とは、なにも思わないこと。
それは、言語化しないということでもある。
思いを思いのままに。
こういうことを考えてて観えてくるものがある。
言語化することはひとつの道だと。
言語化することで、意識の段階が進む。
自分の段階を深めていく為に、一度拡げる必要がある。
その為に言語化というものは大事なのだ と。
自分を知るのに、客観視することに似ている。
客観視していくことで、自分の主観性を築いていく。
主観視できるように成ってくれば、自然と客観性は主観に同化していく。
こうやって、自分はひとつに成っていく。
このことが俺に繋がりを持って示してくれる。
自分と自身を。
こうやって、無は有に成り、有は無と為す。
もう、コンタクトの存在忘れてきてるw
っていうか、ほぼ忘れてたりしてw
んで、最近の俺の目。
前よりずっと落ち着いてきてる。
自分の顔観て、自分の心の状態が解る。
じーっと鏡越しに自分を凝視して観てると、
焦点が外れて輪郭がぼやっと見えてくる。
その状態でリラックスができていると、見えている色も変化してくる。
明るかったり暗かったり、黄色だったり緑だったり。
んで、ぼやっと見えている状態で、顔を見る。
そしたら、その時の心の状態の自分の顔が見える。
時には笑っていたり、時には哀しそうだったり。
なんか暗かったりとかね。
この状態で、笑顔の練習をするとけっこう好いと思う。
筋肉だけではどうしようもない。
自分の雰囲気を。自分の色を。
それに気付いて少しずつ解っていくしかない。
そしたら、ちょっとずつ心の状態の顔が変わってくるのが解る。
あぁ、俺はなにを言ってんだってねw
物事を直接変えるようなことっていうのは無くて、
すべてのものは変えなくても変わっていくもの。
変えることと、変わることの違い。
なにかを変えようとするとき、
変えようとしている自分は流れに乗れていないことを知ろう。
苦しみは流れに逆らうことで生まれる。
楽しみは流れに沿うことで生まれる。
無心とは、なにも思わないこと。
それは、言語化しないということでもある。
思いを思いのままに。
こういうことを考えてて観えてくるものがある。
言語化することはひとつの道だと。
言語化することで、意識の段階が進む。
自分の段階を深めていく為に、一度拡げる必要がある。
その為に言語化というものは大事なのだ と。
自分を知るのに、客観視することに似ている。
客観視していくことで、自分の主観性を築いていく。
主観視できるように成ってくれば、自然と客観性は主観に同化していく。
こうやって、自分はひとつに成っていく。
このことが俺に繋がりを持って示してくれる。
自分と自身を。
こうやって、無は有に成り、有は無と為す。
2月29日の日記
2004年2月29日この土日、けっこう日記書いてたりしたんだけど、しっくり来ず。
結局今に至るわけでw
久々に心の整理に使ってみようかと。
今浮かんでくるのは、
仕事
個人でなにか作りたい
貯え
これくらいかな。
少なくなったなぁと思うわけでw
仕事と個人でなにか作りたいっていうのは、内容が似てるんだけど、
仕事は、プログラミングすること。
個人でなにか作りたいのは、作る前に、企画を考案すること。
まぁ、突き動かされるくらい、激しく浮かび上がってはきてないんだけど。
貯えは、金や物について。
貯えってさ、金に余裕があるとかないとかじゃなくて、貯えなんだよね。
お金が欲しいと言う。
でも、そのお金があったとしても結局同じことの繰り返し。
まぁ、風呂に入っててふと浮かんだことですw
最近は、けっこう心の整理も進んできてて、俺の中だけでも整理できる。
だから、最近よく、相手と話してることに意識が向いてる。
というより、話すことに意識が向いてる。
もっぱら聞く体勢ではありますがw
話すことで、俺のなにかを引き出させてもらってる。
話すだけじゃなく、見ることでも。
観じることで、引き出させてもらってる。
それを感じることで深くなっていってる。
ってことで、こんな感じですw
結局今に至るわけでw
久々に心の整理に使ってみようかと。
今浮かんでくるのは、
仕事
個人でなにか作りたい
貯え
これくらいかな。
少なくなったなぁと思うわけでw
仕事と個人でなにか作りたいっていうのは、内容が似てるんだけど、
仕事は、プログラミングすること。
個人でなにか作りたいのは、作る前に、企画を考案すること。
まぁ、突き動かされるくらい、激しく浮かび上がってはきてないんだけど。
貯えは、金や物について。
貯えってさ、金に余裕があるとかないとかじゃなくて、貯えなんだよね。
お金が欲しいと言う。
でも、そのお金があったとしても結局同じことの繰り返し。
まぁ、風呂に入っててふと浮かんだことですw
最近は、けっこう心の整理も進んできてて、俺の中だけでも整理できる。
だから、最近よく、相手と話してることに意識が向いてる。
というより、話すことに意識が向いてる。
もっぱら聞く体勢ではありますがw
話すことで、俺のなにかを引き出させてもらってる。
話すだけじゃなく、見ることでも。
観じることで、引き出させてもらってる。
それを感じることで深くなっていってる。
ってことで、こんな感じですw
放心演舞
2004年2月28日「それ」は
なにものからも なにごとからも
囚われを手放すことで
得られるもの
「それ」は
なにものにも なにごとにも
囚われることなく
手放していられることで
得られているもの
「それ」を為すことで
すべてが「それ」に成り
すべては「それ」そのもの
舞台の上で
自分はなにができる
人の舞台の上で
自分になにができる
自分の舞台の上だから
自分でできることがある
小さな親切大きなお世話
これを「人の為」と言う
情けは人の為ならず
これを「自分の為」と言う
人の舞台の上で
自分にできることはない
自分の舞台の上だからこそ
自分にできることがある
人の為に事を為す
これを「偽り」と言う
「偽り」の日々に幸せは生まれない
自分の舞台の上に立っている自分を知ること
人は人
自分は自分
何物にも
囚われる事無く
何事にも
囚われる事無く
全ては
為すが儘に
『放心演舞』
なにものからも なにごとからも
囚われを手放すことで
得られるもの
「それ」は
なにものにも なにごとにも
囚われることなく
手放していられることで
得られているもの
「それ」を為すことで
すべてが「それ」に成り
すべては「それ」そのもの
舞台の上で
自分はなにができる
人の舞台の上で
自分になにができる
自分の舞台の上だから
自分でできることがある
小さな親切大きなお世話
これを「人の為」と言う
情けは人の為ならず
これを「自分の為」と言う
人の舞台の上で
自分にできることはない
自分の舞台の上だからこそ
自分にできることがある
人の為に事を為す
これを「偽り」と言う
「偽り」の日々に幸せは生まれない
自分の舞台の上に立っている自分を知ること
人は人
自分は自分
何物にも
囚われる事無く
何事にも
囚われる事無く
全ては
為すが儘に
『放心演舞』
限界を作るのは決まって、いつも自分
2004年2月27日無 (表裏一体、陰陽、メビウスの帯(輪)、0(zero)、幸)
無心とは、なにも思わないこと。
なにも思わないとは、なにも感じないということではないんだ。
なにも思わないとは、感じ続けること。
言い方を変えれば、思考しないで、察すること。
いつも心の中に
言葉で伝えようとする自分がいませんか?
言葉で自分と会話していませんか?
心には限りが有りません。
限界を作るのは決まって、いつも自分です。
心と形のやりとりをしていませんか?
心を"形有るもの"だと決めてつけていませんか?
"形有るもの"は、一面。
"形無いもの"は、すべて。
俺は、この観方をメビウスの帯から気付きました。
「∞」と表されているメビウスの帯。
右向きとか左向きとか、表とか裏とか。
そう捉えようとしているのが、枠であり、形。
限り無く小さいものと、限り無く大きいもの。
ふたつは同じものだと観じています。
"形有るもの"も、"形無いもの"も、
同じ"もの"なんだよ。
心は、心。
そして、
自分は、自分。
安心 - 放心
コップに水が入っている
そのコップの水を安定させたい
でも地面が揺れていて安定しない
この水を安定させるためには、
コップを安定させなければならない。
コップを安定させるためには、
地面を安定させなければならない。
と、思うかも知れない。
でも、そもそも地面は安定するものだろうか?
地面が安定しなければ、本当に、コップの水は安定しないものだろうか?
水と心は同じものだと観じています。
心を落ち着けて安定させるためには、内側を安定させなければならないんだ。
でないと、外側は安定してこないんだ。
内側が定まっていないのに、外側を定めようとすると、変えることになる。
それは、なにかを失うこと。
内側を定めようとすると、外側は変わっていく。
というより、内側と同調していく。
コップの水は、まず、コップを安定させたらいい。
それは、環境に適応すること。
地面の揺れに沿うこと。
川の流れに水が逆らっていたら、どうなるんだろうね。
風の流れに雲が逆らっていたら、どうなるんだろうね。
水は、高い方から低い方へ流れる。
雲は、風の吹いた先へ流れる。
まずは、身体と環境を調えること。
そこから、身体の内側を調えること。
そしたら、外側も自然と調っていく。
そして、それすらも自然になる。
身体の内側と環境を調える、「外静内動」。
身体の外側と環境を調える、「外動内静」。
このふたつの言葉は、「心の中」を調えることを表していると観じています。
無心とは、なにも思わないこと。
なにも思わないとは、なにも感じないということではないんだ。
なにも思わないとは、感じ続けること。
言い方を変えれば、思考しないで、察すること。
いつも心の中に
言葉で伝えようとする自分がいませんか?
言葉で自分と会話していませんか?
心には限りが有りません。
限界を作るのは決まって、いつも自分です。
心と形のやりとりをしていませんか?
心を"形有るもの"だと決めてつけていませんか?
"形有るもの"は、一面。
"形無いもの"は、すべて。
俺は、この観方をメビウスの帯から気付きました。
「∞」と表されているメビウスの帯。
右向きとか左向きとか、表とか裏とか。
そう捉えようとしているのが、枠であり、形。
限り無く小さいものと、限り無く大きいもの。
ふたつは同じものだと観じています。
"形有るもの"も、"形無いもの"も、
同じ"もの"なんだよ。
心は、心。
そして、
自分は、自分。
安心 - 放心
コップに水が入っている
そのコップの水を安定させたい
でも地面が揺れていて安定しない
この水を安定させるためには、
コップを安定させなければならない。
コップを安定させるためには、
地面を安定させなければならない。
と、思うかも知れない。
でも、そもそも地面は安定するものだろうか?
地面が安定しなければ、本当に、コップの水は安定しないものだろうか?
水と心は同じものだと観じています。
心を落ち着けて安定させるためには、内側を安定させなければならないんだ。
でないと、外側は安定してこないんだ。
内側が定まっていないのに、外側を定めようとすると、変えることになる。
それは、なにかを失うこと。
内側を定めようとすると、外側は変わっていく。
というより、内側と同調していく。
コップの水は、まず、コップを安定させたらいい。
それは、環境に適応すること。
地面の揺れに沿うこと。
川の流れに水が逆らっていたら、どうなるんだろうね。
風の流れに雲が逆らっていたら、どうなるんだろうね。
水は、高い方から低い方へ流れる。
雲は、風の吹いた先へ流れる。
まずは、身体と環境を調えること。
そこから、身体の内側を調えること。
そしたら、外側も自然と調っていく。
そして、それすらも自然になる。
身体の内側と環境を調える、「外静内動」。
身体の外側と環境を調える、「外動内静」。
このふたつの言葉は、「心の中」を調えることを表していると観じています。
睡眠要求と意識
2004年2月26日けっこう身体の健康について言ってますが、
今年に入って、平日の睡眠時間は平均4時間くらいだったりする。
1年前の俺からすれば考えられないような睡眠時間。
てか、1回くらいならまだしも、平日毎日ですw
よく耐えられるねって?
んー。耐えるっていうか、意識が身体を抑えたというか・・・。
良い状態とは言えない。
別に耐えられるというだけで、身体がぜんぜん疲れていないわけではなく。
身体は、睡眠をとりたがってる。
それを意識で抑えてるだけ。
最近観じてるのが、
物事が行き詰ったときの眠気は、意識が散ってるからだ と。
その「気」を「今此処」に集めてくれば眠気がとれる。
眠い時って、気が散ってる。
それを感じていたとしても、
眠気をとるには、それを集めてくるだけの意識が必要で。
俺が耐えれている理由は、もうひとつある。
身体があまり疲れないから。
上記では、意識で抑えてるって言ったけど、意識が勝ってるっていうことで。
例えば、激しく運動するとか。
目の使い過ぎからくる神経性のものとか。
外部的イラつきとか、落ち込みとか。
こういうものが少なくなったおかげで、身体からの激しい睡眠要求がこないw
だから、意識が強ければ、身体からの要求に負けないっていうこと。
負けないっていうことと、睡眠をとらなくていいということは違う。
睡眠を十分にとって身体の要求がなく、その上で、意識が自由なのがいいねw
あたりまえですが。
ちなみに今日は、6時間半くらいです。
4時間より体調が良いことがよく解りますw
落ち着けててもそう。
いつもなら、ここで眠気がくるっていう時に、身体が良い状態なら眠気がこない。
十分に睡眠をとる
たったこれだけのことだけど、"実感すること"。
これが、
心が先へ進む為に今できる、確かな一歩だと観じています。
ちなみに、睡眠を「十二分」にとることが良いことかどうかは知りませんw
睡眠を「十分」にとりましょう。
ね。
今年に入って、平日の睡眠時間は平均4時間くらいだったりする。
1年前の俺からすれば考えられないような睡眠時間。
てか、1回くらいならまだしも、平日毎日ですw
よく耐えられるねって?
んー。耐えるっていうか、意識が身体を抑えたというか・・・。
良い状態とは言えない。
別に耐えられるというだけで、身体がぜんぜん疲れていないわけではなく。
身体は、睡眠をとりたがってる。
それを意識で抑えてるだけ。
最近観じてるのが、
物事が行き詰ったときの眠気は、意識が散ってるからだ と。
その「気」を「今此処」に集めてくれば眠気がとれる。
眠い時って、気が散ってる。
それを感じていたとしても、
眠気をとるには、それを集めてくるだけの意識が必要で。
俺が耐えれている理由は、もうひとつある。
身体があまり疲れないから。
上記では、意識で抑えてるって言ったけど、意識が勝ってるっていうことで。
例えば、激しく運動するとか。
目の使い過ぎからくる神経性のものとか。
外部的イラつきとか、落ち込みとか。
こういうものが少なくなったおかげで、身体からの激しい睡眠要求がこないw
だから、意識が強ければ、身体からの要求に負けないっていうこと。
負けないっていうことと、睡眠をとらなくていいということは違う。
睡眠を十分にとって身体の要求がなく、その上で、意識が自由なのがいいねw
あたりまえですが。
ちなみに今日は、6時間半くらいです。
4時間より体調が良いことがよく解りますw
落ち着けててもそう。
いつもなら、ここで眠気がくるっていう時に、身体が良い状態なら眠気がこない。
十分に睡眠をとる
たったこれだけのことだけど、"実感すること"。
これが、
心が先へ進む為に今できる、確かな一歩だと観じています。
ちなみに、睡眠を「十二分」にとることが良いことかどうかは知りませんw
睡眠を「十分」にとりましょう。
ね。
好きなことを為る。だから、もっと好きに成る。
2004年2月25日好きなことを為る。
だから、もっと好きに成る。
愛していることを知る。
だから、もっと愛しく成る。
幸せなことを知る。
だから、もっと幸せに成る。
自分の答えを聞く。
だから、もっと自分に聞けるように成る。
自分の"内側"にも、為さなければ成らないものがたくさんあるんだ。
なにかを為すこと。
それは、心を開いていくこと。
今、俺の観得ている限りでは、
「好き」を観詰めていくと、「愛」のように観じている。
俺の「好き」とあなたの「好き」は違うかも知れない。
俺の言葉を思い込むことなく、自分にも惑わされることなく、
どうか、"好きなもの"を知ってください。
"好きなこと"を為てください。
それが、
自分にとって、"今あるもの"です。
それが、
自分にとって、"今できること"です。
それは、
苦しくても、楽しくても、"変わらないもの"。
それは、
苦しくても、楽しくても、"変わらないこと"。
だから、もっと好きに成る。
愛していることを知る。
だから、もっと愛しく成る。
幸せなことを知る。
だから、もっと幸せに成る。
自分の答えを聞く。
だから、もっと自分に聞けるように成る。
自分の"内側"にも、為さなければ成らないものがたくさんあるんだ。
なにかを為すこと。
それは、心を開いていくこと。
今、俺の観得ている限りでは、
「好き」を観詰めていくと、「愛」のように観じている。
俺の「好き」とあなたの「好き」は違うかも知れない。
俺の言葉を思い込むことなく、自分にも惑わされることなく、
どうか、"好きなもの"を知ってください。
"好きなこと"を為てください。
それが、
自分にとって、"今あるもの"です。
それが、
自分にとって、"今できること"です。
それは、
苦しくても、楽しくても、"変わらないもの"。
それは、
苦しくても、楽しくても、"変わらないこと"。
独楽
2004年2月24日最近、「月下の棋士」を読んでるw
ほんと、自分が興味のあるものって、
「今」、自分が興味のあるものだね。
俺にも登りつめたいものがひとつ心に浮かんでいることに気付く。
真理
そして、今の俺にとって、
悟ることは、己に剋つこと。
自分に負けて得るものはひとつもない。
一理あるなと納得したりして。
自分に負けたら、ひとつも得られないのは、心が閉じていくから。
得ようとする心も閉じていくんだ。
落ち着くことも、自分との向き合いだ。
俺にとっては、けっこう大変なことです。
簡単なことが難しい。
簡単に成っていくことも難しい。
俺は、この難しさに興味があるんだ。
好きこそ物の上手なれ だ。
好きなことを為すこと。
言葉で表すと、
『楽しい』
この言葉に尽きる。
ほんと、自分が興味のあるものって、
「今」、自分が興味のあるものだね。
俺にも登りつめたいものがひとつ心に浮かんでいることに気付く。
真理
そして、今の俺にとって、
悟ることは、己に剋つこと。
自分に負けて得るものはひとつもない。
一理あるなと納得したりして。
自分に負けたら、ひとつも得られないのは、心が閉じていくから。
得ようとする心も閉じていくんだ。
落ち着くことも、自分との向き合いだ。
俺にとっては、けっこう大変なことです。
簡単なことが難しい。
簡単に成っていくことも難しい。
俺は、この難しさに興味があるんだ。
好きこそ物の上手なれ だ。
好きなことを為すこと。
言葉で表すと、
『楽しい』
この言葉に尽きる。
脳内チェック
2004年2月24日〜 壁に耳あり障子にめありぃ さんのところから「脳内チェック」 〜
__________________________________________________________
●あなたの頭脳タイプ <Da型>
新感覚推進タイプ
あなたは既に何らかの形で、代表か社長またはリーダー的存在で活躍していることでしょう。一風変わった感覚を持った個性派です。自由主義で枠にはまらず、規制されることを何より嫌います。
しかしその個性は尊重されるべきで、若い時代には多少窮屈かもしれませんが、めげずに独自の道を歩んでください。
基本的には図形的空間的センスに優れているので、芸術や都市計画・環境などの分野で大きな視野をもち斬新な発想をもって望んでください。
[相性判断]
◇Ba、Bb、Bc型の人とコンビを組むとあなたの発想は現実味をもちます。
◇あなたをもうひと回り大きくしてくれる人はDb、Dc、Cb、Ccの人達です。
●あなたの知能領域(考えたり憶えたりする材料 )
あなたは、ものの形・位置・方角などを材料に
『図形的にとらえ』考えたり憶えたりする能力に優れています。
●あなたの知能活動(どのように頭を働かせるか)
『転換的思考型』
ひらめきが良く、逆転の発想などまったく別の角度からの視点をもって考えられるタイプ。発見・発明タイプ。
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こういう結果がでてますが、
俺の場合、
仕事でプログラミングしてる時は、けっこうBa型になってると思う。
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●あなたの頭脳タイプ <Da型>
新感覚推進タイプ
あなたは既に何らかの形で、代表か社長またはリーダー的存在で活躍していることでしょう。一風変わった感覚を持った個性派です。自由主義で枠にはまらず、規制されることを何より嫌います。
しかしその個性は尊重されるべきで、若い時代には多少窮屈かもしれませんが、めげずに独自の道を歩んでください。
基本的には図形的空間的センスに優れているので、芸術や都市計画・環境などの分野で大きな視野をもち斬新な発想をもって望んでください。
[相性判断]
◇Ba、Bb、Bc型の人とコンビを組むとあなたの発想は現実味をもちます。
◇あなたをもうひと回り大きくしてくれる人はDb、Dc、Cb、Ccの人達です。
●あなたの知能領域(考えたり憶えたりする材料 )
あなたは、ものの形・位置・方角などを材料に
『図形的にとらえ』考えたり憶えたりする能力に優れています。
●あなたの知能活動(どのように頭を働かせるか)
『転換的思考型』
ひらめきが良く、逆転の発想などまったく別の角度からの視点をもって考えられるタイプ。発見・発明タイプ。
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こういう結果がでてますが、
俺の場合、
仕事でプログラミングしてる時は、けっこうBa型になってると思う。
ネーミング
2004年2月23日そういえば俺は、
なにかに名前を付けるとき、
名前を考案している時間がかなり長い。
それは、
自分の中で答えが決まらないことを示しているわけだけど。
でも、
俺の場合、観方が違ったんだ。
俺は、答えが決まらないのではなく、
答えに見合う名前が、見付からないんだ。
だから、
名前が付けれたときは嬉しかったりするw
俺のささやかな喜び。
俺は、表現するのに時間がかかるっていうことで。
俺が今、
こうやってなにかを表現できるのは、
それだけの時間を経てきているからだということだね。
なにかに名前を付けるとき、
名前を考案している時間がかなり長い。
それは、
自分の中で答えが決まらないことを示しているわけだけど。
でも、
俺の場合、観方が違ったんだ。
俺は、答えが決まらないのではなく、
答えに見合う名前が、見付からないんだ。
だから、
名前が付けれたときは嬉しかったりするw
俺のささやかな喜び。
俺は、表現するのに時間がかかるっていうことで。
俺が今、
こうやってなにかを表現できるのは、
それだけの時間を経てきているからだということだね。
春なんだね
2004年2月23日今日は、気持ちよく起きた。
寒さもほとんどなく。
気持ちがよかった。
起きるのが気持ちよかったのは、どれくらいぶりだろうw
あぁ、春なんだね。
そう実感した。
それだけで気分がいい。
後悔は、後悔するためにある。
そう気付いてから、後悔することを悩むことが減った。
まだ、なくなってはいないんだけどね。
後悔するのは、懸命に為さなかったから。
悔やむのは仕方ない。
そこからどうすればよかったか、考えて自分の答えを出す。
これが、反省。
あの時に戻りたいと思っていると、囚われる。
時は戻れない。
それが解っているなら、少しずつ「今」に懸命になっていける。
毎日ほんのちょっとずつだけど、
"本気"に為らなければ、成らないものがあることを観じ始めている。
そして、
"本気"に成れる自分を感じ始めている。
寒さもほとんどなく。
気持ちがよかった。
起きるのが気持ちよかったのは、どれくらいぶりだろうw
あぁ、春なんだね。
そう実感した。
それだけで気分がいい。
後悔は、後悔するためにある。
そう気付いてから、後悔することを悩むことが減った。
まだ、なくなってはいないんだけどね。
後悔するのは、懸命に為さなかったから。
悔やむのは仕方ない。
そこからどうすればよかったか、考えて自分の答えを出す。
これが、反省。
あの時に戻りたいと思っていると、囚われる。
時は戻れない。
それが解っているなら、少しずつ「今」に懸命になっていける。
毎日ほんのちょっとずつだけど、
"本気"に為らなければ、成らないものがあることを観じ始めている。
そして、
"本気"に成れる自分を感じ始めている。
人は、自分自身を知ることができる。
2004年2月22日動物は、自分を現実によって知ることができる。
人は、自分を事実や現実から知ることができる。
そして、そこから自分自身を知ることができる。
人は、自分を事実や現実から知ることができる。
そして、そこから自分自身を知ることができる。
改めて解ること
2004年2月21日去年の7月から酒飲んでなかったけど、酒飲んでみた。
飲んだ感想は、
あぁ、こういう味だったねぇ♪
みたいな。
そして、現実から遠ざかる感覚を感じた。
実感が薄れたんだ。
やっぱ酒って、薬みたいなもんだと思う。
好い意味での薬じゃないけども。
それでも、こういうことを観じられるのは、日頃の成果ってやつだねw
酒を飲んでも呑まれるな
飲み過ぎにはご注意を。
自分の眉間に他人の指を近付けられると、
ウズウズ・ジワジワ感じたりしませんか?
まぁ、気持ち悪い感じですかね。
あれって、感じない人いますよね。
解らないだけかも知れませんけど、
あの感覚が解るのは、思いが強いからかなと思ったり。
理屈は割愛しますw
飲んだ感想は、
あぁ、こういう味だったねぇ♪
みたいな。
そして、現実から遠ざかる感覚を感じた。
実感が薄れたんだ。
やっぱ酒って、薬みたいなもんだと思う。
好い意味での薬じゃないけども。
それでも、こういうことを観じられるのは、日頃の成果ってやつだねw
酒を飲んでも呑まれるな
飲み過ぎにはご注意を。
自分の眉間に他人の指を近付けられると、
ウズウズ・ジワジワ感じたりしませんか?
まぁ、気持ち悪い感じですかね。
あれって、感じない人いますよね。
解らないだけかも知れませんけど、
あの感覚が解るのは、思いが強いからかなと思ったり。
理屈は割愛しますw
聞く
2004年2月21日聞くということは、なにかを認識しようとすることではないんだ。
聞くということは、思うのではなく、受け入れるということ。
思いながら聞いていては、聞けない。
もっと落ち着いて観てよ。
もっと心を落ち着けてよ。
そんな世間体とか気にしないでよ。
どんなに外を取り繕っても、内は輝きはしないよ。
どんなに外"だけ"を磨いても、内が輝くとは限らないよ。
落ち着いて。
落ち着いて、なにかを為せば、それだけで外も内も輝き始めるよ。
落ち着いていれば、それが感じれるはずだよ。
若ければ若いほど身体の力は強いよ。
徐々に力は弱くなっていくけれど
なくなることはないんだ。
だから、いつでも感じようとすれば感じられるんだ。
心を落ち着けて、身体を感じてみてほしい。
あたりまえなもの・ことを、
新鮮に感じられるだけの落ち着きを。
健康で快適に動かせる身体を。
どうか、自分の心を聞いてあげてください。
そしたら、恥じることがあるかも知れません。
でも、それでいいんです。
それを受け入れれるようになっていくことが
本当に自分の道を歩むことになるのだから。
道が開けるのは、自分の道だから。
自分の道だから、切り開けるんだ。
聞くということは、思うのではなく、受け入れるということ。
思いながら聞いていては、聞けない。
もっと落ち着いて観てよ。
もっと心を落ち着けてよ。
そんな世間体とか気にしないでよ。
どんなに外を取り繕っても、内は輝きはしないよ。
どんなに外"だけ"を磨いても、内が輝くとは限らないよ。
落ち着いて。
落ち着いて、なにかを為せば、それだけで外も内も輝き始めるよ。
落ち着いていれば、それが感じれるはずだよ。
若ければ若いほど身体の力は強いよ。
徐々に力は弱くなっていくけれど
なくなることはないんだ。
だから、いつでも感じようとすれば感じられるんだ。
心を落ち着けて、身体を感じてみてほしい。
あたりまえなもの・ことを、
新鮮に感じられるだけの落ち着きを。
健康で快適に動かせる身体を。
どうか、自分の心を聞いてあげてください。
そしたら、恥じることがあるかも知れません。
でも、それでいいんです。
それを受け入れれるようになっていくことが
本当に自分の道を歩むことになるのだから。
道が開けるのは、自分の道だから。
自分の道だから、切り開けるんだ。
味わおう
2004年2月20日人は、考え方や観方次第でずいぶんと気分が違う。
ほんと、
自分の考え方や観方だけでは解らないもの・ことってあるね。
ひとつのもの・ことで前向きにも後ろ向きにも"成れる"。
ひとりは、楽観的に。
ひとりは、悲観的に。
ひとりは、前向きに。
ひとりは、後ろ向きに。
まじで、同じもの・ことだよ?
同じもの・ことを観て、十人十色に捉え方が違う。
どうして、こんなに捉え方が違うんだろう?
それは、各々の囚われ方に違いがあるからだと俺は観じている。
捉え方が違うのに、囚われ方が違うのかって?
捉え方っていうのは、考え方や観方のことで、
考え方や観方というのは、固定観念等によって範囲が束縛されるんだ。
だから、その固定観念等の囚われによって、
観えるもの・こと、それについての考えが限定されるということなんだ。
そもそも、人それぞれで、同じもの・ことなんてないんじゃないのかって?
例えば、あなたがご飯を食べたとして、
あなたは美味しいと言い、誰かは味が薄くて不味いと言ったとする。
同じご飯を食べても人それぞれ意見が異なるよね。
でも、同じご飯を食べたんだよ?
同じご飯を食べたということが、
同じもので同じことをしたということを指しているんだ。
味が薄くて不味いというのは、ご飯を食べたことによって生じた思いだよね。
事実として観るなら、
このご飯はこういう味付けになっているということなんだ。
味わうとは、味を感じ解ることを言うんじゃないかな。
味わうことは、美味しいものを食べるっていうことなんだろうか?
俺は、美味しく食べるっていうことだと観じている。
美味しいもの。
その「美味しい」を感じているのは誰?
そう、自分。
それを美味しいと感じているのは、自分の味覚に合っているから。
誰かがそれを不味いと感じているのは、誰かの味覚に合わないから。
でも、この「合わない」というのも違う気がしているが、また今度w
味わうこと。
それは、
どんなもの・ことでも知り、
楽しむこと。
味わえること。
それは、
どんなもの・ことでも知り、
楽しめること。
楽しむこと。
それは、
在るがままを在るがままに感じ、
受け入れること。
楽しめること。
それは、
在るがままを在るがままに感じ、
受け入れられること。
ほんと、
自分の考え方や観方だけでは解らないもの・ことってあるね。
ひとつのもの・ことで前向きにも後ろ向きにも"成れる"。
ひとりは、楽観的に。
ひとりは、悲観的に。
ひとりは、前向きに。
ひとりは、後ろ向きに。
まじで、同じもの・ことだよ?
同じもの・ことを観て、十人十色に捉え方が違う。
どうして、こんなに捉え方が違うんだろう?
それは、各々の囚われ方に違いがあるからだと俺は観じている。
捉え方が違うのに、囚われ方が違うのかって?
捉え方っていうのは、考え方や観方のことで、
考え方や観方というのは、固定観念等によって範囲が束縛されるんだ。
だから、その固定観念等の囚われによって、
観えるもの・こと、それについての考えが限定されるということなんだ。
そもそも、人それぞれで、同じもの・ことなんてないんじゃないのかって?
例えば、あなたがご飯を食べたとして、
あなたは美味しいと言い、誰かは味が薄くて不味いと言ったとする。
同じご飯を食べても人それぞれ意見が異なるよね。
でも、同じご飯を食べたんだよ?
同じご飯を食べたということが、
同じもので同じことをしたということを指しているんだ。
味が薄くて不味いというのは、ご飯を食べたことによって生じた思いだよね。
事実として観るなら、
このご飯はこういう味付けになっているということなんだ。
味わうとは、味を感じ解ることを言うんじゃないかな。
味わうことは、美味しいものを食べるっていうことなんだろうか?
俺は、美味しく食べるっていうことだと観じている。
美味しいもの。
その「美味しい」を感じているのは誰?
そう、自分。
それを美味しいと感じているのは、自分の味覚に合っているから。
誰かがそれを不味いと感じているのは、誰かの味覚に合わないから。
でも、この「合わない」というのも違う気がしているが、また今度w
味わうこと。
それは、
どんなもの・ことでも知り、
楽しむこと。
味わえること。
それは、
どんなもの・ことでも知り、
楽しめること。
楽しむこと。
それは、
在るがままを在るがままに感じ、
受け入れること。
楽しめること。
それは、
在るがままを在るがままに感じ、
受け入れられること。
きっかけを掴む
2004年2月19日ふと気付く。
1年前とは明らかに違う俺の「気」についての観方。
1年前にこういうものだと思っていたものが、
その捉え方がずいぶんと狭かったことを知る。
そして、今もその狭さを感じ始めている。
なんとなく、
いつもこれが「きっかけ」のような気がしている。
俺がこの狭さを感じなければ、
俺は今より広く成れない。
いや、成ろうとしないだろう。
拡げるのか、拡がるのか。
分かれ道
この「きっかけ」を"ものにできるかどうか"に懸かっているんだ。
「きっかけ」とは、「縁」と呼ばれているものだと観じている。
「きっかけ」を掴むものは、いつも前向きなものだ。
それに手を伸ばすことができるのは、前向きだから。
前向きだからなんだよ。
前向きに成るためには、自分を自分で励ますこと。
なにかに頼り依存するのではなく、
自分を自分で励ませるということ。
それがまわりに依存しない「自分らしさ」を育てることにもなっているんだ。
もちろん、支えてもらっていることも忘れないでね。
依存することと支えてもらっていることは違うんだ。
詰まるところ、
依存しないことが「きっかけを掴む」ということになると観じている。
誰かにしてもらう前に、自分でしてみよう。
自分でできること。
その中に「きっかけ」は含まれているんだよ。
自分でできることは、抱え込むことともまた違うんだ。
自分らしく。
ね。
1年前とは明らかに違う俺の「気」についての観方。
1年前にこういうものだと思っていたものが、
その捉え方がずいぶんと狭かったことを知る。
そして、今もその狭さを感じ始めている。
なんとなく、
いつもこれが「きっかけ」のような気がしている。
俺がこの狭さを感じなければ、
俺は今より広く成れない。
いや、成ろうとしないだろう。
拡げるのか、拡がるのか。
分かれ道
この「きっかけ」を"ものにできるかどうか"に懸かっているんだ。
「きっかけ」とは、「縁」と呼ばれているものだと観じている。
「きっかけ」を掴むものは、いつも前向きなものだ。
それに手を伸ばすことができるのは、前向きだから。
前向きだからなんだよ。
前向きに成るためには、自分を自分で励ますこと。
なにかに頼り依存するのではなく、
自分を自分で励ませるということ。
それがまわりに依存しない「自分らしさ」を育てることにもなっているんだ。
もちろん、支えてもらっていることも忘れないでね。
依存することと支えてもらっていることは違うんだ。
詰まるところ、
依存しないことが「きっかけを掴む」ということになると観じている。
誰かにしてもらう前に、自分でしてみよう。
自分でできること。
その中に「きっかけ」は含まれているんだよ。
自分でできることは、抱え込むことともまた違うんだ。
自分らしく。
ね。
此処にいる
2004年2月18日言葉で示すのも、行動で示すのも、
同じ"もの"を示しているのに、
なぜ、言葉でなければいけないの?
伝わらないのは、その人のせいなんかじゃない。
解らないのは、その人のせいなんかじゃない。
伝わらないのは、解らないのは、自分だからなんだ。
それは、自分の「エゴ」が引き起こしていることなんだよ。
朝少し早く起きて、瞑想なんてしてみる。
たった5分でも、目を瞑って、
聞くことで、感じるごとに、落ち着いていく。
去年のいつ頃からだったか忘れたけど、
瞑想っていうか、精神統一っていうか、
自分を一心にしていくと、ふと我に返る感覚を覚えた。
この我に返る感覚は、曇りから晴れになるような感覚。
まぁ、目覚めっていうか、ね。
んで、この感覚を、
一心にしていく最中に感じ始めると、
一心にするという行為が変わり始める。
行い自体は変わらない。
変わるのは質。
まずは、自分を一心にしていくこと。
自分がどれだけ一心にしようとしたかというのは、
けっこう解るものなんだ。
目を閉じているなら、目を開けてみればいい。
そんな至極自然であたりまえなことが新鮮に感じるものなんだ。
目を瞑っていると、自分が何処にいるのか解らなくなったりしていませんか?
此処にいる と、言えますか?
では、此処とは何処でしょう?
目を瞑った世界で、此処が何処だか解りますか?
外面的な此処もそうですが、
内面的な此処は何処か解りますか?
あやふやだった自分の価値観が
少しずつはっきりとしてきていると感じています。
自分の好いところ、好くないところ。
そういうのが解ってきています。
自分を思い込んだりすることなく、自分が解るんです。
俺はけっこう自分が好きですが、もっと好きになってきています。
「なにかを好きになる」とは、こういうこと。
「すべてを好きになる」とは、そういうこと。
同じ"もの"を示しているのに、
なぜ、言葉でなければいけないの?
伝わらないのは、その人のせいなんかじゃない。
解らないのは、その人のせいなんかじゃない。
伝わらないのは、解らないのは、自分だからなんだ。
それは、自分の「エゴ」が引き起こしていることなんだよ。
朝少し早く起きて、瞑想なんてしてみる。
たった5分でも、目を瞑って、
聞くことで、感じるごとに、落ち着いていく。
去年のいつ頃からだったか忘れたけど、
瞑想っていうか、精神統一っていうか、
自分を一心にしていくと、ふと我に返る感覚を覚えた。
この我に返る感覚は、曇りから晴れになるような感覚。
まぁ、目覚めっていうか、ね。
んで、この感覚を、
一心にしていく最中に感じ始めると、
一心にするという行為が変わり始める。
行い自体は変わらない。
変わるのは質。
まずは、自分を一心にしていくこと。
自分がどれだけ一心にしようとしたかというのは、
けっこう解るものなんだ。
目を閉じているなら、目を開けてみればいい。
そんな至極自然であたりまえなことが新鮮に感じるものなんだ。
目を瞑っていると、自分が何処にいるのか解らなくなったりしていませんか?
此処にいる と、言えますか?
では、此処とは何処でしょう?
目を瞑った世界で、此処が何処だか解りますか?
外面的な此処もそうですが、
内面的な此処は何処か解りますか?
あやふやだった自分の価値観が
少しずつはっきりとしてきていると感じています。
自分の好いところ、好くないところ。
そういうのが解ってきています。
自分を思い込んだりすることなく、自分が解るんです。
俺はけっこう自分が好きですが、もっと好きになってきています。
「なにかを好きになる」とは、こういうこと。
「すべてを好きになる」とは、そういうこと。
"後悔するために"出す答えだってあるんだ
2004年2月17日思い込もうとしちゃだめだよ。
知っていることがすべてじゃないんだよ。
自分の"内だけで"考えてちゃ、後悔しない"答え"なんて出ないんだよ。
自分の"内だけで"出てきたものは、後悔するための"答え"なんだよ。
知っていることがすべてじゃないんだよ。
自分の"内だけで"考えてちゃ、後悔しない"答え"なんて出ないんだよ。
自分の"内だけで"出てきたものは、後悔するための"答え"なんだよ。
ここに見えない壁があります
2004年2月16日言葉にしたくないことがある。
心の中ではっきりとしていないからなのかも知れないけど。
言葉にしたくないこともある。
なにかのきっかけがないと出てこないものがある。
心の中では出したいって感じていてもね。
それは、自分で門を閉めているから。
誰かが訪ねてこない限り、門を開けないなんて悲しいね。
もっと落ち着けるようになろう。
自分の門を自分で開けるように。
相手からではなく、自分から訪ねていけるように。
ここ最近、
見えない壁があるように感じている。
迷っているのか?
それとも、探しているのか?
近いうちに抜け出すだろう。
そして、見つけ出すだろう。
壁を壁だと解るなら。
今の俺になにが足りない?
なにかが欠けているわけじゃない。
ふと、気付く。
俺には、落ち着きが足りない と。
身体を弛めれるだけの落ち着きが。
心安らげるだけの気持ちが。
結局
今の俺に足りないのは積み重ね。
地道に、
一歩ずつ歩んでいけばいい。
地道に歩めるその気持ちこそが、
今の俺に必要なもの。
心の中ではっきりとしていないからなのかも知れないけど。
言葉にしたくないこともある。
なにかのきっかけがないと出てこないものがある。
心の中では出したいって感じていてもね。
それは、自分で門を閉めているから。
誰かが訪ねてこない限り、門を開けないなんて悲しいね。
もっと落ち着けるようになろう。
自分の門を自分で開けるように。
相手からではなく、自分から訪ねていけるように。
ここ最近、
見えない壁があるように感じている。
迷っているのか?
それとも、探しているのか?
近いうちに抜け出すだろう。
そして、見つけ出すだろう。
壁を壁だと解るなら。
今の俺になにが足りない?
なにかが欠けているわけじゃない。
ふと、気付く。
俺には、落ち着きが足りない と。
身体を弛めれるだけの落ち着きが。
心安らげるだけの気持ちが。
結局
今の俺に足りないのは積み重ね。
地道に、
一歩ずつ歩んでいけばいい。
地道に歩めるその気持ちこそが、
今の俺に必要なもの。