天下

2004年5月9日
昨日、「CASSHERN」(キャシャーン)観てきました。

泣いてる人も居れば、あくびが出てる人も居た。

それくらい受け取り方で差のあるものってことだね。



人は皆、何かに悩み苦しみ、同じ様に生きて居る。


自分だけが正しいと言う事では無い。

自分だけが間違って居ると言う事では無い。


人は、其処から目を背け、再び、同じ過ちを繰り返すのだろうか。


誰かが正しいと言う事でも無い。

誰かが間違って居ると言う事でも無い。


どれかが正しいと言う事でも無い。

どれかが間違って居ると言う事でも無い。


全ては

在るが儘に


全ては

正しい

 

感覚を磨く

2004年5月8日
右手と左手。

食事をする時、箸をどちらの手で使ってる?
文字を書く時、ペンをどちらの手で使ってる?

利き手はどっち?
利き目はどっち?
利き耳はどっち?
利き足はどっち?
前と後ろ、よく感じられるのはどっち?


普段「あたりまえ」にしていることを、反対でやってみる。

もちろん、「あたりまえ」にやっている方とは比べ物にならないだろう。

それが本当なんだ。

「あたりまえ」にできるほど、自分が慣れていることを知ろう。


これが「あたりまえ」を「あたりまえ」ではなくしていく方法。



ちなみに、俺は、

利き手は、右。
利き目は、右。
利き耳は、右。
利き足は、右。
前と後ろなら、後ろの方が感じやすい。(前の場合、視覚に頼るしねw)

でも、箸は左手で使う練習をし、今は右手よりも上手いくらいだ。
利き目に関しては、意識的に左目をメインにすることもできる。
利き耳も同じく。
利き足はそこまで意識してないかも。


反対が存在するもので、
一極が上手でも、反対の一極が下手なら、
下手の一極も上手になることが、もう片方の一極を上達させる道でもある。


偏れば、偏った分、反動があるものだ。

 

馬耳東風

2004年5月7日
耳に入ってくる音を聞きながら、身体を弛める。

いや、聞くことで、弛んでいく。

落ち着いてきたら、浮かんでくるものを観察する。


落ち着いてくることで、自然と流れが観えるようになってくる。

 

纏まらない心 - 壁

2004年5月6日
久々に気の話。

最近は、気を養っているつもりもないくらい日常的になってる。

「慣れ」は、行き過ぎ。


ていうか、最近、また落ち着き方が解らなくなってる。

いや、解らないというより、今の状態に慣れていると言った方がいい。


この先に、どうやったら行けるのか。


いつも決まって、同じ壁にぶち当たる。

自分の立っている足元が観えなくなるんだ。

俺は、足元を観直すことで、いつのまにか先に進んでる。

本当は、いつのまにか という間も自覚していくべきもの。

あれもこれも と、一変に成そうと為なくてもいいじゃない。


ひとつ、ひとつ。

また、ひとつ。

そうやって、纏まっていくんだ。

纏まってくることで、
自然と一変に成しているように観えてくるものがあるんだ。


物事って、ほんとシンプルなもんだと観じてますよ。


一、感に対なる、一、覚。


心のキャッチボールは、ボールの投げ合いではない。

心のキャッチボールは、投げたら、取る。取ったら、投げる。

投げるものが居て、受け取るものが居るから、成り立つものなんだ。

 

2004年5月5日
なにかがないと書けない。

なにか、きっかけがないと書けない。

きっかけがないと考えもしない。

今考えているのは、なにかのきっかけがあったから。



人に自分が言えることってほとんどないんだ。

人の為に言えることなんて、すべて自分は言わせてもらっているんだ。

言ってあげても、伝わるかどうかはその人次第。

言葉ひとつ取って観ても、
言ってあげようとする心構えの人が多いように思える。

言わせてもらおうよ。

ボランティアが偽善に成らないように為ようよ。



なにかきっかけがないと、悩んでいないんだよ。

悩んでいる直接の原因は、なにかの出来事ではないんだ。

出来事は、出来事。

そのものに変わりはないんだよ。

悩んでいる直接の原因は、自分が自分で悩む方向に物事を捉えていること。

自分で悩む問題だと思っているんだ。



心の目を閉じてみよう。

心の目を閉じて自分を感じてみよう。


目をそっと閉じるように、思い・想いをそっと受け流す。

感情をそっと受け流す。


受け流し始めて、初めて観えてくるものがあるんだ。



精神的なものを自分で解決するには、
『集中力』という意識の覚醒が必然的に必要だと観じています。

http://diarynote.jp/d/26909/20031202

 

拘り

2004年5月4日
人の過去に拘って居るものほど、自分の過去に拘って居る。

自分の過去に拘るものほど、人の過去に拘る。


自分の役割に拘って居るものほど、人の役割に拘って居るものだ。

 
自分が経験し、体験し、実感し、自覚することで、

少しずつ、自分は変わっていく。


人に教えてもらって変われるものは、それだけのものを備えていたということ。

大半のものについては、人に教えてもらっても変われないもの。

だから、

自分で自覚する為に、経験から体験を繰り返す。


そうやって、心は育っていくんだね。

 

俺は逃げて居る

2004年5月3日
俺は自分のコンプレックスから逃げて居る。


それに気付くことが出来た、その時から、

少しだけ、前よりそれを観ることが出来て居る自分が居る。

 

羅針盤

2004年5月2日
自分自身を探す旅

自分の自信を築き上げる旅



「それができる」、「それもできる」。

そもそも、「それ」ができるかどうかを探しているわけじゃない。


自分の感じ思っているものを、観察していく。

「自分というもの」を、観察する。

「自分というもの」が動いて居ても、動いて居なくても観察する。


自分の外にあるものを探すのではなくて、

自分の内に「今」あるものを知っていくだけ。

 
木の匂い

今の時期から、夏終わりくらいまで続く匂い。

すっごく癒されてるんですけどw

思わず深呼吸したくなるくらい。

甘い匂い。

自然な甘さっていうんだろうか。


俺は、

何年ぶりにこの季節を感じているのだろうか。

子供の頃嗅いでいた匂いを、再び嗅ぐことができるなんて。

忘れていた匂い。

そう。

この匂いだったんだ。


またひとつ、記憶が今に甦ったよ。

 
一人一人が変わっていけば、世界は変わっていく。

だから

世界を変えることなく、

世界は変わる。

 

守護

2004年4月29日
福岡に帰省してて、福岡より更新です。


実家に帰ってきて感じること。

この家

護られてる。

この家に居るだけで、癒される。


どう癒されるのかって?
背中が温かいんだ。
背中あたりから全身に広がっていく温かいもの。

ここに居ると元気に成れる。

そう直感できる温かさがこの家にはあった。


この家に住んでいた時は気付きもしなかったよ・・・。

 

PANDORA BOX

2004年4月28日
開けたくない箱というものがある。

その箱の中にいっぱい忘れたいものを詰め込んでいるのだろう。

いつも決まって

その箱を開くのは、忘れたいものを詰め込む時。


いずれ

その箱に忘れたいものを詰め込む時以外に開ける時がやってくる。

その時がきたら、閉じようとせずに、ひとつずつ手にとって、思い出し、

その箱から出すんだ。

そして、手放すんだ。



その箱を綺麗にしていくことで、自分は変わっていく。

それを続けていけば、いずれその箱を閉じておく理由がなくなる。


その箱が開け放たれる時。

それは、過去という呪縛から解き放たれる時。

 
安らぎの気持ちよさって、どんな気持ちよさだと思う?

俺が観じているには、安らぎは「実」。

ちなみに、性欲は「狂」。

恋は「揺」。

人は「波」。

やっぱ、愛は「温」だろうか。

どんな気持ちよさって、簡単に表せるなら表してるってねw



「聡」と「明」

「澄んだ瞳」という意味合いのある言葉。

よく見えるようになってくると目が澄んでくる。

よく聞こえるようになってくると心が澄んでくる。


目には気持ちが表れる。

気持ちとは、心。


目が澄んでくるとよく見えるようになってくる。

心が澄んでくるとよく聞こえるようになってくる。



ふと我に返った時に感じて観てほしい。

今、

自分の目にはなにが見えていて、

自分の耳にはなにが聞こえているのか。

 

それもできる

2004年4月26日
「それができる」

から、気持ちをもっと広げて行くと、

「それもできる」

と、成る。


気持ちを広げることは、心の視野を広げることとも言える。

何かに対し「それができる」と思えるなら、それは視野を狭めて居る。

何かに対し「それもできる」と思えるなら、「それができる」よりもよく観えて居る。


心の視野を広げて行くことは、心を深く落ち着かせて行くこととも言える。


「それができる」

そう思える気持ちは、「それ」を観て居るから。


「それもできる」
そう思える気持ちは、詰まるところ、自分自身を観て居るから。


自分自身を観て居る人は、自分らしく此処に居る人とも言える。

 

理を知る

2004年4月25日
「理解」という言葉がある。

この言葉は普段なにげなく使っている言葉。

この言葉には、この3つのことが含まれている。

なにかを判ること。
なにかを解ること。
なにかを分ること。


なにかを判るためには、なにかを知っている必要がある。
なにかを解るためには、なにかを判っている必要がある。
なにかを分るためには、なにかを解っている必要がある。

この「なにか」とは、なんだろうね。

 

本日は晴天なり

2004年4月24日
コンビニでふと目に入った「ぴあ」。

読んだ部分は、槇原敬之の独占ロングインタビュー。

そして、気付いたこと。

年齢に関係なく、
最近そういうことを伝えようとしている人が増えているのではないか?と。

俺がそう観じられるように成ったということもある。

日々誰かと話していても、
今日こんなことを考えたと話し・話され、似たことを今日自分も考えて居たことがある。

いろんな人が同じように受け止めて居るものがある。

いろんな人がいろんな形に込めて伝えようと為て居るものがある。


読み手次第で、伝えて居るものの受け取り方は違う。

ひとつのものを感じて居る人が居る。
そのひとつのものとは違うひとつのものを感じて居る人も居る。

それでも、
俺の伝えたいものは「優しい歌が歌えない」歌詞の中にある。





鳥肌てさ、
霊関係で鳥肌が立つことあるけど、
俺は去年から霊関係以外にも鳥肌が立つことがけっこうある。

それは、感動した時だ。

子供の頃、すごく興味の惹かれるものに出逢うと、目が輝いて居る自分が居た。
その時一緒に鳥肌も立って居たことを覚えて居る。

なにかに出逢うこと。

それは、
感動することでもあるということ。


鳥肌が立つ度に、なにかが劇的に変わって行く。

なにかと表しているもの。

それは、感覚。


「感」を覚える。

「感」を観て行くことで、初めて覚(わか)るものがある。

 
だから、いろんなもので満たしたくなる。

でも、

どれだけ詰め込んでも満たされないのは、なぜだと思う?

満足が得られないのは、なぜだと思う?


それは、味わう心を亡くして居るからなんだよ。


ただなにかを食べる

それだけで、お腹は膨れます。

でも、心のお腹は一向に膨れません。



それは、それだけじゃ心は満足していないことを示して居るんだけど、

もっと食べたい

ということとは、違うんだ。


もっと食べたい

と、伝えるのは、お腹。


もう十分です

と、伝えるのも、お腹。


それは心とは違うところから伝わってきているんだ。


そもそも、心が求めているものとはなにか。

それを知ろうとすることが
心を満たすことに直結していると言っても過言ではないと思っています。


何事も味わいましょうよ。

精一杯。

ね。

 
例えば、
人の悪い部分が観えているとして、それをその人に伝えるにはどうすればいいのか。

直接言うことだけが、「伝える」という意味じゃない。

間接的であっても、
それがその人に「伝わる」なら、それは「伝えた」ということなんだね。


自分が「伝えて、あげた」と思う必要はなく、

自分が「気付かせて、もらった」と感じて居ればそれでいい。

 
辛く苦しいことの中に

なにかひとつ 自分の為に成ることを見つければ

それは幸せに変わる


辛く苦しい時ほど、辛く苦しいことしか観えていない。

嬉しく楽しい時ほど、嬉しく楽しいことしか観えていない。

 

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